1−90−16]菜羹。」
その三十四
第十日は文化三年五月二十八日である。「廿八日卯時発。一里三十丁野尻駅。木曾川|石岩《せきがん》に映山紅《えいざんこう》盛に開く。矮蟠《あいはん》すること栽《うゝ》るがごとし。和合酒《わがふしゆ》を買ふ。(酒店和合屋|木工右衛門《もくゑもん》と名《なづ》く。)二里半三|富野《との》駅。一里半妻籠駅。二里馬籠駅。扇屋兵次郎家に宿す。苦熱たへがたし。行程七里半|許《きよ》。」映山紅はやまつつじである。花木考に「山躑躅一名映山紅」と云つてある。
詩。「野尻駅至三富野途中。谷裏孤村雲裏荘。僻郷却是似仙郷。※[#「飮のへん+羔」、第4水準2−92−66]摶粉蕨甘兼滑。酒醸流泉清且香。板屋畏風多鎮石。桑園防獣為囲墻。詩吟未満奚嚢底。已厭山程数日長。雌雄瀑布。瀑泉遙下翠嵐中。迸勢争分雌与雄。誰是工裁長素練。十尋双掛石屏風。」
第十一日。「廿九日卯時に発す。十曲《とまがり》峠をすぐ。美濃信濃の国境なり。一里五丁落合駅。与坂《よさか》の府関《ふくわん》ありて一里五丁中津川駅なり。此駅に一老翁の石をうるあり。白黒石英の類なり。其いづる所を問へば、此国苗木城西二里|許《きよ》水晶が根といふ山よりとり来るといふ。二里半大井駅。十三峠をのぼる。此|嶺《れい》はなはだ険ならず、渓《けい》なく谷《こく》あり。石も少して赤埴土《あかきはにつち》なり。木曾路のごとく山腹の崖路にあらず、山頭の道なり。松至て多く幽鬱の山なり。三里半|大湫《おほくて》駅。小松屋善七の家に宿す。午後風あり涼し。雷《かみ》なる。雨ふらず。行程八里半余。」
詩。「巻金村。離信已来濃。行行少峻峰。望原莎径坦。臨谷稲田重。五瀬雲辺嶺。七株山畔松。炊烟人語近。半睡聴村舂。」五|瀬《らい》はいせである。「此地遠望勢州之諸山、翠黛於雲辺」と註してある。
第十二日。「六月|朔日《ついたち》卯発。琵琶嶺をすぎ山を下れば松林あり。右方に入海のさまにて水滔々たり。諸山の影うつる。海の名を轎夫《けうふ》に問へば谷間の朝霧なりと答ふ。はじめて此時仙台政宗の歌を解得《ときえ》たり。(仙台政宗の歌に、山あひの霧はさながら海に似て波かときけば松風の声。)一里三十丁|細久手《ほそくて》駅。此近村に一|呑《のみ》の清水といふあり。由縁《いうえん》詳《つまびらか》ならず。然ども鬼の窟《いはや》、鬼の首塚等の名あれば、好事者鬼といふより伊勢もの語にひきあてゝつけし名ならんか。三里御嶽駅。一里五丁伏見駅。太田川を渡り二里太田駅。芳野屋庄左衛門の家に宿す。熱甚。しかれども風あり。此駅に到て蠅大に少し。蚊は多し。此夜|※[#「巾+厨」、第4水準2−8−91]《かや》を設く。行程七里|許《きよ》。」
第十三日。「二日卯発し駅をいづれば、渓水浅流の太田川にながれ入る所あり。方一尺許の石塊をならべてその浅流を渡る。直にのぼる山|乃《すなはち》勝山なり。一山みな岩石也。斫《きり》て坂となし坦路となしゝものあり。窟の観音に詣る。佳境絶妙なり。河幅至てひろく、水心に岩石|秀聳《しうしよう》し、蟠松矯樹《はんしようあいじゆ》ううるがごとく生ず。水勢の石に激する所あり。淵をなして蒼々然たる所あり。浅流底砂を見る所あり。美濃山中の勝地ならん。二里鵜沼駅にいたる。犬山の城見ゆる。四里八丁加納駅。一里半河渡駅。塗師《ぬし》屋久左衛門の家に宿す。気候前日のごとし。行程七里半余。」
詩。「観音阪。観音山畔望。渓水濶且奇。源自東西会。瀬因深浅移。小航工避石。壊岸却成逵。只見宜玄対。愧余未忘詩。」
その三十五
第十四日は文化三年六月三日である。「三日、此日は南宮山に詣《いた》らんとして未明撫院に先《さきだ》つて発せり。一貫川を経て一里六丁|美江寺《みえでら》駅に到る。呂久《ろく》川を渡り大垣堤を過《よぎ》るとき、旭日初て明に養老山望前に見ゆ。二里八丁赤坂の駅に到る。青野原の傍《かたはら》を経て垂井《たるゐ》駅なり。駅中に南宮一の鳥居あり。七八丁入り社人若山八兵衛といふものを導《みちびき》として境内を歴覧す。空也上人建るところの石塔みかげ石字なし。図巻末に出す。仏師春日の造る狛犬は随身門《ずゐじんもん》の後にあり。古色朴実にして猛勢怖るべきがごとし。左方の狛犬玉眼一隻破たり。本社の内にも狛犬あれども新造のものにして観るに足らず。全く春日の作を摸するものと思はる。鐘あり。銅緑を一面に生じて古色なり。銘なし。社旁《しやはう》に五重の石塔婆あり。高さ三尺七八寸苔蘚厚重して銘かつてよめず。(籬島《りたう》よくも見たり。)図後に出す。鉄塔あり。古色実に五百年前のもの也。銘よみうれども鉄衣あつき故摺得ず、やうやく年号のみすりたり。往年は屋前も作らずありしを中川飛騨守(勘定奉行たりしとき)検巡の
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