と存じます。早速あちらへまいって申してみることにいたしましょう。でもあの内気《うちき》なお佐代さんが、よくあなたにおっしゃったものでございますね」
「それでございます。わたくしも本当にびっくりいたしました。子供の思っていることは何から何までわかっているように存じていましても、大違いでございます。お父うさまにお話し下さいますなら、当人を呼びまして、ここで一応聞いてみることにいたしましょう」こう言って母親は妹娘を呼んだ。
お佐代はおそるおそる障子をあけてはいった。
母親は言った。「あの、さっきお前の言ったことだがね、仲平さんがお前のようなものでももらって下さることになったら、お前きっと往くのだね」
お佐代さんは耳まで赤くして、「はい」と言って、下げていた頭を一層低く下げた。
長倉のご新造が意外だと思ったように、滄洲《そうしゅう》翁も意外だと思った。しかし一番意外だと思ったのは壻殿《むこどの》の仲平であった。それは皆|怪訝《かいが》するとともに喜んだ人たちであるが、近所の若い男たちは怪訝するとともに嫉《そね》んだ。そして口々に「岡の小町が猿のところへ往く」と噂した。そのうち噂は清武一郷に伝播《でんぱ》して、誰一人怪訝せぬものはなかった。これは喜びや嫉《そね》みの交じらぬただの怪訝であった。
婚礼は長倉夫婦の媒妁《ばいしゃく》で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれまでただ美しいとばかり言われて、人形同様に思われていたお佐代さんは、繭《まゆ》を破って出た蛾《が》のように、その控え目な、内気な態度を脱却して、多勢《おおぜい》の若い書生たちの出入りする家で、天晴《あっぱ》れ地歩を占めた夫人になりおおせた。
十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵《しゅくえん》に親戚故旧が寄り集まったときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がった。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。
翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女|須磨子《すまこ》が生まれた。中一年おいた年の七月には、藩の学校が飫肥《おび》に遷《うつ》されることになった。そのつぎの年に、六十五になる滄洲翁は飫肥の振徳堂《しんとくどう》の総裁にせられて、三十三になる仲平がその下で助教を勤めた。清武の家は隣にいた弓削《ゆげ》という人が住まうことになって、
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