院《おうじょういん》を菩提所にしていたが、往生院は上《かみ》のご由緒《ゆいしょ》のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を死所《しにどころ》ときめたのである。五助が墓地にはいってみると、かねて介錯を頼んでおいた松野|縫殿助《ぬいのすけ》が先に来て待っていた。五助は肩にかけた浅葱《あさぎ》の嚢《ふくろ》をおろしてその中から飯行李《めしこうり》を出した。蓋《ふた》をあけると握り飯が二つはいっている。それを犬の前に置いた。犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。
「おぬしは畜生じゃから、知らずにおるかも知れぬが、おぬしの頭をさすって下されたことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それでご恩になっていなされたお歴々は皆きょう腹を切ってお供をなさる。おれは下司《げす》ではあるが、御扶持《ごふち》を戴いてつないだ命はお歴々と変ったことはない。殿様にかわいがって戴いたありがたさも同じことじゃ。それでおれは今腹を切って死ぬるのじゃ。おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれはそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院《しゅううんいん》で井戸に飛び込んで死んだ。どうじゃ。おぬしもおれと一しょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬になっても、生きていたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、食うなよ」
こう言って犬の顔を見ていたが、犬は五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食おうとはしない。
「それならおぬしも死ぬるか」と言って、五助は犬をきっと見つめた。
犬は一声《ひとこえ》鳴いて尾をふった。
「よい。そんなら不便《ふびん》じゃが死んでくれい」こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。
五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸《やしき》で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助|哉《かな》」と、常の詠草のように書いてある。署名はしてない。歌の中に五助としてあるから、二重に名を書かなくてもよいと、すなおに考えたのが、自然に故実にかなっていた。
もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」と言って、安座《あんざ》して肌《はだ》をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を逆手《さかて》に持って、「お鷹匠衆《たかじょうしゅう》はどうなさりましたな、お犬牽《いぬひ》きは只今《ただいま》参りますぞ」と高声《たかごえ》に言って、一声|快《こころ》よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後《うしろ》から首を打った。
五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。男子一人は小さいとき出家していたからである。後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。五助の甥の子が二代の五助となって、それからは代々|触組《ふれぐみ》で奉公していた。
忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門|通信《みちのぶ》というものがあった。初めは明石氏《あかしうじ》で、幼名を猪之助《いのすけ》といった。はやくから忠利の側近《そばちか》く仕えて、千百石余の身分になっている。島原征伐のとき、子供五人のうち三人まで軍功によって新知二百石ずつをもらった。この弥一右衛門は家中でも殉死するはずのように思い、当人もまた忠利の夜伽《よとぎ》に出る順番が来るたびに、殉死したいと言って願った。しかしどうしても忠利は許さない。「そちが志は満足に思うが、それよりは生きていて光尚《みつひさ》に奉公してくれい」と、何度願っても、同じことを繰り返して言うのである。
一体忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖がついている。これはよほど古くからのことで、まだ猪之助といって小姓を勤めていたころも、猪之助が「ご膳《ぜん》を差し上げましょうか」と伺うと、「まだ空腹にはならぬ」と言う。ほかの小姓が申し上げると、「よい、出させい」と言う。忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。そんなら叱られるかというと、そうでもない。この男ほど精勤をするものはなく、万事に気がついて、手ぬかりがないから、叱ろうといっても叱りようがない。
弥一右衛門はほかの人の言いつけられてすることを、言いつけられずにする。ほかの人の申し上げてすることを申し上げずにする。しかしすることはいつも肯綮《こうけい》にあたっていて、間然すべきところがない。弥一右衛門は意地ばかりで奉公して行くようになっている。忠利は初めなんとも思わずに、ただこの男の顔を見る
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