が片隅で泣いてゐる。
 一日一日と過ぎて行く。譬へば飾の糸に貫《ぬ》いた花の一輪が、次の一輪と接して続いてゐるやうなものである。
 或暮方の事である。フロルスは暢気に遊び戯れてゐた最中、突然沈鬱な気色になつた。俄に敵に襲はれたやうな態度である。急に咳枯《しやが》れた声でかう云つた。
「どうしたのだらう。どうしてこんなに暗くなつたのだ。牢屋ぢやないか。」
 フロルスは低い寝台《ねだい》の上に身を横へた。壁の方に向いて、黙つて溜息を衝《つ》いた。
 そこへゴルゴオがそつと這入つて来て抱き附いたが、フロルスは顧みずに、押し退けるやうにして云つた。
「お前誰だ。知らない女だ。今は行けない。気を附けろ。錠前の音がすると、番人が目を醒ますぜ。」
 ゴルゴオは黙つて退《の》いた。
 無言のルカスが狗のやうに這ひ寄つて、寝台の縁から垂れてゐる主人の手に接吻した。

     五

 主人の寝部屋の外で転寐《うたゝね》をしてゐる家来共のためには、鬱陶しい夜であつた。無言のルカス丈が黙つておとなしく主人の傍にゐた。夜どほし部屋の中を往つたり返つたりしてゐる主人の足音が聞えた。暁近くなつて、家来共がまどろんだ。
 忽ち空気を切り裂くやうな、叫声が響いた。人の声らしく無い。此世のものでないものが、反響のするやうに「死」と叫んだかと思はれた。
 家来共は躊躇しつゝ戸を敲いた。無言の童が内から戸を開けて入れた。童の顔は、いつもの子とは見えぬ程、恐怖のために変つてゐる。そして童は、つひに物を言つたことの無い口で、あらあらしく「死だ、死だ」と繰り返して云ふ。※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《をし》の物を言ふのを不思議がる暇も無く、家来共は寝台に駆け寄つた。
 フロルスは寝台の上に、項《うなじ》を反らせて、真つ黒になつた顔をして動かずにゐる。ルカスは今離れたばかりと見える寝台に、又駆け寄つて、無言で俯伏《うつぶし》になつた。
 恐怖の使は医師と差配人との許に走らせられた。
 ※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]の童は絶間なく「死だ、死だ」と云ふ詞を反復してゐる。只此詞丈を言ふために物を言ひ出したかと思はれる位である。
 フロルスは項を反らせて、真つ黒になつた顔をして動かずにゐる。手が一本だらりと寝台の縁から垂れてゐる。
 医師が来てフロルスの体を検査した。フロルスは慥に死んでゐた。医師は驚きながら差配人に死骸の頸の痕を指さして見せた。くるりと帯のやうに、黒ずんで腫れ上がつて、皮の下には血が出てゐる。なんとも説明のしやうの無い痕である。
 フロルスの死目に逢つた只一人のルカスは、恐怖のお蔭で物が言はれるやうになつて、吃りながらかう云つた。
「死だ、死だ。又縛られなすつたのだ。そして歩いて歩いて、とう/\がつかりなすつて、床の上にお倒なさる。わたしにはなんにも仰やらない。わたしは飛び附いた。すると咽をぜい/\云はせながら、目を開《あ》いて御覧なすつた。ああ。神々様。朝日が窓から赤く差した。フロルス様は黒くおなりなすつて、それ切動かなくおなりなすつた。」
 死骸の始末などのために、人々はルカスの事を忘れてゐた。
 翌朝やつと明るくなる頃、襤褸《ぼろ》を着た跣足《はだし》の老人が来て、フロルスに逢ひたいと云つた。主人の怪しい死様《しにざま》に就いて、何か分かるかと思つて、差配人が出て老人に逢つた。
 老人は骨※[#「魚+更」、第3水準1−94−42]《こつかう》で、しかも淳樸なものらしい。周囲《まはり》に狗がたかつて吠えてゐる。
「内の檀那の亡くなつたのを、お前知らずに来たのかい。」
「いゝえ。知りません。だがそれはどうでも好いのです。わたしは只言ひ附けられた用を済ませさへすりやあ好いのです。」
「誰が言ひ附けたのだ。」
「マルヒユスさんです。」
「それは誰だい。」
「今は此世の人ではありません。」
「亡くなつたのかい。」
「きのふの朝おしおきになりました。」
「内の檀那を知つてゐた人かい。」
「いゝえ。知らないのですが、宜しく言つて、そして死んだことを知らせてくれと云ひました。それからこちらでは※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《をし》が物を言ふだらうと云ひました。」
「うん。己はもう物を言つてゐる。」これはルカスが駆け寄つて、老人の手に接吻しながら言つたのである。
「お前檀那の死顔が見たいのかい」と、差配人が問うた。
「なに。それには及びません。ひどくお変になりましたか。」
「うん。ひどくお変になつた。」
「マルヒユスさんも羂《わな》でひどく顔が変ました。頸にひどい痕が附いて。」
「まだ何か言ふことがあるかい。」
「いゝえ。もう往きます。」
「わたしは一しよに往くよ。」これはルカスが優しい声で云つたのである。
 もう日が薄紅《うすくれなゐ》に中庭を彩《いろど》つてゐた。雇はれて来た女原《をんなばら》が、痩せた胸をあらはにして、慟哭の声を天に響かせた。

此訳稿の首《はじめ》に人物の目録を添へたのは、脚本には有つても、小説には例の無い事である。訳者は只此短篇を会得《ゑとく》し易くしようと思つて、特に読者のために、篇中に出してある人物を表裏二様に分けて列記して置いた丈の事である。



底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「三田文学 四ノ七」
   1913(大正2)年7月1日
入力:tatsuki
校正:山根生也
2001年11月13日公開
2005年12月16日修正
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