所ではあるが、角《かど》の一間だけ自分の居間にして置いた。併しそれも後に娘に遣つてしまつた。今そこではマツシヤが赤ん坊を抱いて寐入らせようとしてゐるのである。「まあ、こちらへでもお掛下さいまし。」かう云つてパシエンカは台所のベンチを指さした。
セルギウスはベンチに腰を掛けた。そして背中に負つた袋を、まづ片々《かた/\》の肩からはづして、それから又外の肩からはづした。もう此袋のはづし方には馴れてゐるのである。
「まあ。まあ。尊いあなた様がどうしてそんなにおへり下りなさいますのでせう。あんなに名高くなつてお出なさる方が、出し抜けにそんな。」
セルギウスは返事をしない。そして優しく微笑みながら、はづした袋を脇に置いた。
パシエンカは娘を呼んだ。「マツシヤや。此方がどなたゞか、お前知つてゐるかい。」かう云つて置いて娘にセルギウスの身の上を囁いた。
それから母と娘とは角の部屋から寝台《ねだい》と揺籠《ゆりかご》とを運び出して跡を片付けた。そしてセルギウスをそこへ案内した。「どうぞこゝで御休息なさいまし。わたくしは今から出て参らなくてはなりませんから。」パシエンカがかう云つた。
「どこへお出なさるのです。」
「わたくしは音楽を教へに往きます。まことにお恥かしい事ですが。」
「なに。音楽を教へにお出ですか。結構な事ですね。わたしはたつた一つあなたにお頼み申したい事があるのですが、いつお話が出来ませうか。」
「さやうでございますね。晩にでも伺ひませう。何か御用に立つ事が出来まするやうなら、此上もない為合《しあはせ》でございます。」
「そんならさう願ひませう。それから早速お断をして置きますが、わたしが誰だと云ふことを誰にも話して下さいますな。わたしはあなたにしか身の上が打ち明けたくないのです。まだわたしがどこへ立ち退いたか誰も知らずにゐます。これはさうして置かなくてはならないのです。」
「あら。わたくしつひさつき娘に話してしまひました。」
「なに。それは構ひません。娘さんに人に話さないやうに言つて置いて下さい。」
セルギウスは靴を脱いで横になつた。前の晩眠らずに、けふ四十ヱルストの道を踏んでゐるので、すぐに寐入つた。
――――――――――――
パシエンカが帰つて来た時、セルギウスはもう目を覚まして待つてゐた。昼食《ひるしよく》は茶の間へ食べに出るやうに勧められても出ずにゐたので、女中のルケリアがスウプと粥とを部屋に運んで食べさせたのである。
セルギウスはパシエンカの帰つたのを見て云つた。「お約束より早くお帰りでしたね。今お話が出来ませうか。」
「まあ。なんと云ふ難有い事でございませう。あなたのやうなお客様がお出なすつて下さるなんて。わたくしはいつもの稽古を一時間だけ断りました。跡から填合《うめあはせ》をいたせば宜しいのです。わたくしは疾《と》うからあなたの所へ参詣しようと思つてゐました。それからお手紙も上げました。それにあなたの方でお出下さるとは、まあ、なんと云ふ難有い事で。」
「どうぞそんな事を言つて下さるな。それからわたしが今あなたに話す事は懺悔ですよ。死ぬる人が神様の前でするやうな懺悔ですよ。どうぞその積りで聞いて下さい。わたしは聖者ではありません。罪人です。厭な、穢らはしい、迷つた、高慢な罪人です。人間の中で一番悪いものよりもつと悪い人間です。」
パシエンカは目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、セルギウスの詞を聞いてゐる。セルギウスが真実の話をすると云ふ事が、婆あさんには分つてゐるのである。婆あさんはセルギウスの手を取つて、優しく微笑んで云つた。「でもそれはあんまり大業《おほげふ》にお考へなさるのぢやありますまいか。」
「いや。さうでない。わたしはね、色好みで、人殺しで、神を涜した男だ。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]衝きだ。」
「まあ。どうしたと云ふのでせう。」
「それでもわたしは生きてゐなくてはならない。今までわたしは何事をも知り抜いてゐるやうに思つて、人にどうして世の中を渡るが好いと教へて遣つたりなんかした。その癖わたしはなんにも分つてゐないのだ。そこで今あなたに教へて貰はうと思ふのです。」
「まあ。何を仰《おつし》やるの。それではわたくしに御笑談《ごぜうだん》を仰やるやうにしか思はれませんね。昔わたくしの小さい時も、好くわたくしを馬鹿にしてお遊びなすつた事がありましたが。」
「なんのわたしがあなたに笑談を云ふものですか。わたしは決してそんな事はしない。どうぞあなたは今どうして日を暮してお出だか、それをわたくしに教へて下さい。」
「あの。わたくしでございますか。それは/\お恥かしい世渡をいたしてをりますの。これは皆神様のお罰《ばち》だと存じます。自分でいた
前へ
次へ
全29ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング