、神の殿堂は外から鎖されてゐる。その戸に鑰《ぢやう》が掛かつてゐる。どうかしたらその鑰が己に見えはすまいか。その鑰があのルスチニア鳥、あの鞘翅虫、即ち自然と云ふものであらうか。事に依つたらあの若い教授の言つた事が真理だらうか。」
セルギウスは声に力を入れて祈祷をし始めた。そして今|萌《きざ》した神を涜《けが》す思想が消えて、心が又落ち着いて来るまで祈祷を続けた。さて鐸《すゞ》を鳴らして僧を呼んで、それに商人と娘とを来させるやうに言付けた。
商人は娘の手を引いて来て、娘を庵室に入れて、自分はすぐに立ち去つた。
娘は明色《めいしよく》な髪をした、非常に色の蒼い、太つた子で、骨組は小柄で背が低い。顔は物に驚いたやうな、子供らしい顔である。女に特有な体の部分々々が盛に発育してゐる。娘の来た時、セルギウスは戸の前のベンチに腰を掛けて待ち受けてゐた。娘はその前を通り過ぎて、セルギウスに並んで立ち留まつた。セルギウスは娘を祝福した。その時セルギウスは自分で自分に驚いた。己はなんと云ふ目をして此娘を見てゐるのだ。此娘の体を見てゐるのだと思つたのである。
娘は庵室に這入つた。その時セルギウスは蝮《まむし》に螫《さ》されたやうな気がした。娘の顔を見た時、白痴で色慾の強い女だと感じたのである。セルギウスは立ち上つて庵室に這入つた。娘はベンチに掛けて待つてゐた。そしてセルギウスの来たのを見て起つた。「わたしお父う様の所へ往きたいわ。」
「こはがることはない。お前どこが悪いのだね。」
「どこもかしこも悪いの。」かう云つたと思ふと、女の顔に突然晴れやかな微笑が現はれた。
「お前今に好くして遣るからね、御祈祷をおし。」
「なんの御祈祷をしますの。あたしいろんな御祈祷をしましたけれど、皆駄目でしたわ。あなたわたしのつむりにお手を載せて、御祈祷をして下さいな。わたしあなたの事を夢に見てよ。」かう云つて矢張笑つてゐる。
「夢に見たとはどんな夢を見たのかい。」
「あなたがわたしの胸に手を載せて下すつた夢なの。こんな風に。」かう云つてセルギウスの手を取つて、自分の胸に押し付けた。
「こゝの所に。」
セルギウスは娘のする儘に右の手を胸に当てゝゐた。「お前名はなんと云ふの。」かう云つた時、セルギウスは全身が震えた。そしてもう己は負けた、情慾を抑へる力が、もう己には無いと思つた。
「マリアと云ふの。なぜ聞くの。」かう云つて娘はセルギウスの手を握つて接吻した。それから両腕でセルギウスの体に抱き付いて、しつかり抱き締めた。
「マリア。お前どうするのだい。お前は悪魔だなあ。」
「あら。何を言つてゐるの。こんな事はなんでもありやしないわ。」かう云つていよ/\きつく抱き締めて一しよに床の上に腰を掛けた。
――――――――――――
夜が明けてセルギウスは戸の外へ出た。「一体|昨夕《ゆうべ》の事は事実だらうか。今にあの父親が来るだらう。そしたら娘が何もかも話すだらう。あいつは悪魔だ。まあ、己は何をしたのだらう。あそこには斧がある。己のいつかの時指を切つたのが、あの斧だ」。セルギウスは斧を手に持つて、庵室に帰つた。
世話をしてゐる僧が出迎へた。「薪をこはしませうか。こはすのなら、その斧を戴きませう。」
セルギウスは斧を渡した。そして庵室に入つた。娘はまだ横になつたまゝでゐる。眠つてゐる。セルギウスはひどく気味悪く思つて娘を見た。それから兼ねてしまつて置いた百姓の衣類を取り出してそれを着た。それから剪刀《かみそり》を取つて髪を短く切つた。
セルギウスは庵室を抜け出して、森の中の道を河に沿うて下つて行つた。此河岸をばもう四年|以来《このかた》歩いた事がないのである。
街道は河の岸にある。それをセルギウスは日が中天に昇るまで歩いた。それから燕麦《からすむぎ》の畑《はた》に蹈み込んでそこに寝て休んだ。
セルギウスは夕方になつて或る村の畔《ほとり》に来た。併しその村には足を入れずに河の方へ歩いて往つて、懸崖《がけ》の下で夜を明かした。
目の覚めたのは、翌朝日の出前半時間ばかりの時であつた。どこもかしこも陰気に灰色に見えてゐる。西から冷たい朝風が吹いて来る。「あゝ。己は此辺で始末を付けなくてはならぬ。神と云ふものはない。だが始末はどう付けたものだらう。河に身を投げようか。己は泳ぎを知つてゐるから、溺れないだらう。首を縊らうか。あ。こゝに革紐がある。あの木の枝が丁度好い。」此手段は容易《たやす》く行ふことが出来さうである。手に取られさうに容易いのである。それが為めにセルギウスは却て身震をして身を背後《うしろ》へ引いた。そしていつもこんな絶望の時にしたやうに、祈祷をしようと思つた。併し誰に祈祷をしたらよからう。神と云ふものは無い。セルギウスは横になつて頬杖を衝いてゐた。
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