寄つた。痛くてたまらないと云ふ風で、うめくやうにアリスチドが云つた。ユリアさん。どうぞ人を呼ばないで下さい。わたしがあなたの側にかうしてゐるのを、あのカルロネさんでも見ようものなら、焼餅焼だから、わたしを打ち殺してしまふだらう。少しの間わたしを休ませて置いて下さい。わたしはすぐに往くのだからと云つた。そしてユリアの膝を枕にしたと思ふと、気を失つた真似をした。ユリアはびつくりして人を呼んだ。人が大勢来た所で、アリスチドは出し抜けに、体の丈夫なもののやうに跳ね起きて、そしてさも間の悪さうな顔をして言ひわけをした。わたしはユリアさんを疾《と》うから好いてゐる。決して悪い料簡で今のやうな事をしたのでは無い。娘さんの恥にならないやうに、わたしが立派に女房に持つと云つた。さもユリアと懇《ねんごろ》にして、草臥《くたび》れて、膝を枕にして寝たのだと云ふ風である。娘はおこつたが、近所の馬鹿共は狡猾なグレシア人に騙されてしまつた。ユリアが声を立てて人を呼んだのだと云ふことさへ忘れて、旨く騙されてしまつた。誰もどの位グレシア人が狡猾だか知らなかつたのだな。アリスチドの言ふのは嘘だと云つて、娘は一しよう懸命に言ひわけをした。するとアリスチドの云ふには、あれはカルロネに打たれるのがこはいので、本当の事を隠して言はないのだと云つた。近所のものはとう/\アリスチドの詞を真に受けた。娘はくやしがつて気の違つたやうにあばれた。そしてそこにあつた石を拾つて、皆に打つて掛かつたので、皆が娘の腕を縛つて町の方へ帰り掛かつた。娘の叫声を聞いてカルロネがそこへ駆け附けて来た。人が今の出来事を言つて聞かせた。カルロネは大勢の人の真ん中で地びたに膝を衝いた。それから跳ね起きしなに、左の手で娘の顔を打つた。右の手はアリスチドの吭《のどぶえ》を掴んでゐる。周囲《まはり》の人がなか/\その手を吭から放すことが出来なかつた。」
「カルロネと云ふ奴は馬鹿な野郎だなあ」と、兵卒がつぶやいた。
「ふん。正直な人間の料簡は胸の底にあるのだ。もう言つたか知らないが、此出来事のあつたのは冬の事で、クリスト様の御誕生祭のある前だつた。土地のものはお祭の日に品物の取遣をすることになつてゐた。葡萄酒や果物や肴や小鳥なんぞを遣るのだ。それはどうしても物持が貧乏人に沢山くれることになつてゐた。ユリアの打たれたのは、ひどく打たれたのだか、どう
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