の指で、そこらぢゆうの物に障《さは》る。音楽が清く優しく、一間の内に漂うてゐる。その一つ一つの音《おん》は、空の遠い星の輝きのやうである。柱の上に据ゑてある時計が、羊の啼くやうな声で、ゆつくり十二打つて、もう夜なかだといふ事が分かつて、女はやつと思ひ切つて帰るのである。
 別れの接吻の、甘く哀しい味を覚えながら、女は広い、ふわりとした外套をはおつて、急ぎ足に帰つて行く。いつもこんなに遅くまでゐる筈ではなかつたがと後悔する。なぜといふに、遅くなつて急いで帰る時は、自分の台の処まで行くのに、狭い横町を通り抜けなくてはならない。そこには厭な、醜い人形がゐる。それは支那人である。鈴の沢山附いた帽子を被つて、ふくらんだ腹を突き出して、胡坐《あぐら》を掻いてゐる。そいつがクサンチスの前を通るのを見ると、首をぶら/\振つて、長い真つ赤な舌を出して、微なごろごろいふやうな笑声を洩すのである。この支那人はパゴオドといつて、その首は胴と離れて、ぶら/\動くやうに出来てゐる。女はその笑声を聞くたびに、我慢のし切れない程厭になる。それかと思ふと、或る時はその支那人の変な顔をするのを見て、吹き出したくなるのを我慢して通る事もある。
     ――――――――――――
 夏が半ば過ぎた頃であつた。飾棚の中へ新しく這入つて来た人がある。それは小さいブロンズ製のフアウヌスである。今まで棚にゐた連中がそれを見て、大分騒いで、口の悪い批評をした。
 こはれ易い陶器の人形達は、「飛んだ荒々しい様子をした人だ」といつて、自然に用心深く、傍に寄らないやうにしてゐる。
 それかと思ふと、小さい、薔薇色の菓子器があつて、甘つたるい声をして、「あら、わたしはあの方の体の丈夫さうなのが好だわ」といつて、あべこべにそつと傍へ寄る。
 又クロヂオンのニムフエは臆面なくこの人の力士らしい体格を褒めてゐる。
 それを聞いた柄附《えつき》目金《めがね》は、ニムフエの詞を遮るやうに、さげすんで云つた。「おや。あれが好いのなんのと、好くもそんな下等な趣味を表白する事が出来たものだね。まあ、あの不細工な節々を御覧よ。あの手を。あの足を。」柄附目金の柄には、金剛石を嵌めて紋の形にした飾が附いてゐて、その柄は非常に長いのである。
「そんな事を言ひ合つてお出だが、あなたなんぞは御存じないのでせう。」かう云つて、さも意味ありげな顔をして、レエスの附いたハンケチを顔に当てゝ、身を前に屈《かゞ》めて、狡猾らしく笑ふのは、素焼の城持ちの貴婦人である。
 大勢の女達が、この内証話を聞きたがつて集つて来た。そんな話をする事には、物慣れてゐる城持ちの貴婦人が、何か序開《じよびら》きに一言二言云つて置いて、傍に立つてゐた一人の耳に口を寄せて囁くと、その聞いた女が隣に伝へる。さういふ風に段々に耳打ちをして、貴婦人の話を取り次いだ。聞えるのは、興奮の余りに劇しく使はれる扇の戦《そよ》ぎばかりである。
 要するにフアウヌスの受けた批評は余り好結果ではなかつた。フアウヌスは下品な、愉快げな様子をして、平手で※[#「身+果」、第4水準2−89−55]《はだか》の胸をぴたりと打つた。その音が余り好いので、小さい女人形達は夢見心地になつた。併し詞少なにしてゐても、ひどく物の分かつてゐる積りの男仲間には、この新参者に対して敵意を含んでゐるものが多かつた。
 どうも上品なこの社会では、フアウヌスの、声高に、不遠慮に笑つたり、立ち振舞つたりするのがなんとなく厭に思はれたのである。
 併しこの社会では、一同腹の中で卑しんで、互にその卑しむ心を知り合つてゐる丈で満足して、黙つてゐる。よしや口に出して非難する事があつても、露骨には言はないで巧みな辞令を用ゐるので、ブロンズ製の人形の野蛮な流儀では、所詮争ふ事が出来ないのである。
 或る時フアウヌスは始めてクサンチスを見た。その時の様子は、まるで百姓の倅が馴染の娘に再会したやうであつた。短く伸びた髯をひねつて、さも疑のない勝利を向うに見てゐるやうな、凝り固つた微笑《ほゝゑみ》を浮べて、相手の様子を眺めてゐたのである。
 そんな風に眺められて、クサンチスは腹を立てるかと思ふと、意外にもそのフアウヌスを見返す目附きが、嫌つてゐるらしくは見えなかつた。丁度その時公爵が傍にゐたので、かう云つた。
「あの土百姓があなたを、失敬な目附きをして見てゐるのに、あなたはなぜ人を好くして見返してお遣りになるのですか。」
「あら。土百姓だなんて。」女は少し不平らしくかう云つて、急に公爵の方を一目見た。その様子が二人を比べて見て、公爵の方が弱々しいと思ふらしく見えた。併し持前の気の変る事の早い女で、直ぐに又フアウヌスの事を忘れてしまつた。
 そして「あんな人なんか」と云つて形附《かたつき》の裳《も》を撮み上げて、ひらりと薔薇の花で飾つた陶器の馬車に乗り移つた。
 それから数日間にクサンチスの平生何事にも大概満足してゐる性質が、著明に変化した。妙に機嫌買ひになつたのである。併し公爵はこの様子を見ても、別に意味のある事とは認めない。それは多年の経験で、女の心といふものを知り抜いて、ひどく寛大に見る癖が付いてゐるからである。この寛大の奥には密《ひそか》に女を軽蔑してゐる心持があるといふ事を、誰でも大した骨折り無しに発見する事が出来るのである。
 或る晩クサンチスは、ひどく苛々した様子をして、青年音楽家の処へ来た。青年が、なぜ不機嫌なのかと問うて見ると、女の返事はそつけない。女は、自分の秘密は自分丈で持つてゐるから、大きにお世話だと云つたのである。余り失敬だと思つて、青年もとうとう不愛想な詞を出した。喧嘩が避くべからざる結果であつた。丁度夏の晴れた日が続いた跡で、空気の中《うち》に電気が満ちてゐるやうに、近頃二人の感情の天も雷雨を催してゐたのである。いよいよそれが爆発した。例の如く猛烈な罵詈《ばり》やら、鈍い不平やら、欷歔《すゝりなき》やら、悲鳴やらがあつて、涙もたつぷり流された。
「ほんとにあなた紳士らしくない方ね。わたしをそんなに見損ふなんて、あんまり残酷だわ。」
 かう云つた時、クサンチスの声は涙に咽《むせ》んでゐて、目はうるみ、胸は波を打ち、体中どこからどこまで抑制せられた感情が行き渡つてゐるのであつた。青年はあやまつて、子供を慰めるやうに慰めて、ふと饒舌《しやべ》つた無礼の詞を忘れてくれと頼んだ。そして二人は抱き合つて和睦した。
 さて青年がいつものやうに熱情を見せさうになつて来ると、女が出し抜けに、どうも余り興奮した為めか、ひどく疲れてゐるから、赦《ゆる》して貰ひたいと云つて、青年の切に願ふのを聞かずに、いつもの時刻よりずつと早く飛び出して帰つた。
 それから自分の台の上に帰つたのは翌朝であつた。
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 此頃からクサンチスは、ひどく機嫌が好くなつた。
 故郷の詩人の賞讚する、晴れた日の快活な光を、クサンチスは体中の※[#「月+奏」、第3水準1−90−48]理《きめ》から吸ひ込んだ。此頃ほど顔色が輝き、髪の毛が金色《きんしよく》に光り、体の輪廓が純粋になつてゐた事は、これまで無かつたのである。
「大した女だ」と、公爵が唱へる。
「無類だ」と、音楽家が和する。
「神々しい。」
「理想的だ。」
 こんな風に二人は鼬ごつこをして褒めちぎる。それをフアウヌスは傍の柱に寄り掛かつて、非常に落ち着いた態度で、右から左へと見比べて、少し伸びた髭を撚《ひね》つてゐる。
 日が暮れて、女は自分の台の上に帰つて、寝支度に髪をほどきながら、一日中にした事を、心の中で繰り返して見ると、どうしても多少の己惚《うぬぼれ》の萌すのを禁ずる事が出来ない。此女には好い癖があつて、寝る前にはきつと踊りの守護神たる、慈悲深いアルテミスに祈祷をする。それが済んで、神様の恩を感じて、軽い溜息をする。それから肱を曲げて、その上に可哀《かはい》らしい頭を載せて穏かに眠るのである。
 あゝ。クサンチス姉えさん。お前さんは神様の恩を知つてゐる積りでゐるが、実はまだその恩といふものが、どれ丈の難有みのあるものだか知らないのだよ。成程お前さんは、勝利の車を、あの、女の世話をする人の中で、一番貴族的な公爵に輓《ひ》かせてゐる。それからあの多情多恨の藝術家たる青年に輓かせてゐる。それからあの強い力の代表者たるフアウヌスに輓かせてゐる。そしてこの一々趣を異にしてゐる交際が、譬へば上手な指物師の拵へた道具のやうに、しつくりと為口《しくち》が合つて、それがお前さんの生活に纏まつてゐるのだ。併しこんなに為合《しあは》せな要約が旨く出合つてゐるといふ以上はもうそろ/\均衡が破れさうになつてゐはしないか。図《はか》らず口から滑り出た一言、ちよいとした、間違つた挙動なぞのやうな、刹那の不用意から生ずる一瑣事が、この不思議に纏まつてゐる総てを打ち崩してしまひはすまいか。お前さんはそこに気が付いて、用心してゐなくてはならないのであつた。
 クサンチス姉えさん。お前さんは場知《ばしら》ずで、気の利かない事をしたのでせうか。決してさうではありません。お前さんはエゲエの社《やしろ》でお祭りのある時に、踊を踊つてゐて、段々年頃になつた、小さな希臘《グレシア》生れの踊子に過ぎないのだが、自分の出合つた、新しい境遇に処するには、どうすれば好いかといふ事丈は、苦もなく悟つてゐた。昔風の、貴族的な交際に必要な、巧者な優しみも出来た。ロマンチツクの感情の劇《はげ》しい嵐に、戦慄しながら、身を委ねる事も出来た。あらゆる恋の役々を、お前さんは巧者に勤めた。
 そんなら何が悪かつたのだらう。本当の事を言ひませうか。お前さんを滅ぼしたのは、彼《か》の堕落の精神だ。この精神が女を煽動して、その胸の中に不可測の出来心を起させる。この精神が、思ひも寄らない時に、女の貞操を騙して、真つ暗な迷ひの道に連れ出す。
 大抵さういふ過失は、言ふに足らざる趣味の錯誤である。そこでその過失の反理性的な処《とこ》に、どうかすると一旦堕落した女の、自業自得の禍から遁《のが》れ出る手掛かりもあるものだ。なぜといふに、女は過失に陥るのも早いが、それを忘れるのが一層容易なものである。
 あゝ。不幸にもお前さんはそんな風に禍を遁れることが出来なかつた。お前さんの不注意は自滅の原因になつたばかりでなく、お蔭で罪のない、お前さんの友達までが、迷惑を蒙つたのである。
 その恐るべき出来事は左の通りである。
     ――――――――――――
 或る晩フアウヌスがクサンチスを待つてゐたが、いつもの時刻に来なかつた。暫くは我慢してゐたが、とうとう十一時半が鳴つたに、クサンチスはまだ来ない。これが外の男なら、女の来ない理由を考へて、自分の恥にもならず、又自分の恋慕の情をも鎮めるやうな説明を付けただらう。そして一時の不愉快を凌ぐ事が出来ただらう。ところがフアウヌスには二つの判断を結び付ける事が出来ない。事実の外の物をば一切認める事が出来ない。一つの事実を手放すには、他の事実を掴まなくてはならないのである。
 もう我慢が出来ないといふ瞬間に、フアウヌスは突然立ち上がつて、クサンチスを捜しに出掛けた。飾棚の隅の処に、薔薇の木の小箱がある。その小箱に付いて曲つて、二十歩ばかりも行くと、クサンチスが見付かつた。
 まあ、なんといふざまだらう。クサンチスは彼《か》の厭な支那人の膝の上に乗つてゐる。女は体をゆすつて精一ぱいの笑声を出してゐる。厭な野郎は不細工な指で、女の着てゐる空色の外套をいぢくつてゐる。美しい襞を形づくつてゐる外套の為めに気の毒な位である。それは長くは続かなかつた。吠えるやうな大喝一声に、棚の硝子《ガラス》が震動して、からから鳴つた。フアウヌスが銅《あかゞね》の腕を振り翳した。一声の叫びをする遑《いとま》もなく、タナグラ製の小さい踊子は微塵になつてしまつた。
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 これが踊子クサンチスの末路であつた。葡萄の実り豊かに、海原の波の打ち寄せる、クリツサの市《いち》に生れた、明
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