それは夕日が紅《くれなゐ》を帯びた黄金《こがね》色に海岸を照してゐる時、優しい、明るい目をした、賢い人達が、互に親しい話を交へてゐる様子を思ひ出したのである。
別れを告げて帰る時、貴人は女の手をそつと握つて、それにそつと接吻した。クサンチスはこれより前に、久しい間、或る老人の猶太《ユダヤ》人に世話をせられて、世をあぢきなく感じてゐたのである。猶太人はこの女を亜鉛《とたん》に金めつきをした厭な人形の中に交ぜて置いたのである。それが今こんな上品な交際振りをする人と知合ひになつたのだから、喜ぶのも尤《もつとも》である。
二人の交際は次第に親密になつた。公爵は、その時代の人の習はしとして、人に気に入るやうに立ち振舞ふ事が上手だから、クサンチスを喜ばせる事が出来たのである。
折々公爵は、クサンチスが朝早く起きた頃に、薔薇の花で飾つた陶器の馬車で、迎へに来た。女は急いで化粧をして、丁度その日の空の色と、自分の気分とに適した着物を着て出掛けた。或る時はふはふはした紐飾の付いた、明るい色の、幅広な裳を着ける。春の朝のやうに軽々として華やかである。或る時は薄い柳の葉の色や、又はレセダの花の色をした、アトラスの絹で拵へた、長いワツトオ式の衣裳を着る。背中には大きい、長い襞が取つてある。又或る時はレカミエエ式の、金の棕櫚の葉の刺繍をした服を着る。臂の附け根の直ぐ下の処に、薔薇色か、サフラン色か、又は黄金色掛かつた褐色の帯が締めてある。
そして終日扇の絵の美しい山水の間を、馬車で乗り廻る。薄緑の芝生や、しなやかに昇る噴水で飾られた園《その》がある。処々《しよ/\》に高尚な大理石の像が立てゝある。木立の間には、愛の神を祀《まつ》つた祠《ほこら》がある。さういふ時は草の上や、又は数奇《すき》を凝した休憩所で辨当を食べて帰る。帰り道に馬車をゆるゆる輓《ひ》かせて通ると、道の両側から、鳩の群に取り巻かれた、牧場《まきば》帰りの男や女が礼をするのである。
実に面白い散歩であつた。
――――――――――――
暫く立つてから、公爵がクサンチスを一人の大理石で刻んだ青年の頭《あたま》に紹介した。この青年は、公爵が近頃知合ひになつた人で、大層音楽が上手だといふ事であつた。
一目見たばかりで、青年はクサンチスを気に入つた女だと思つた。その青年の感じが又クサンチスにも分かつた。二人はよそよそしい話を交へながら、音楽家の方からは不思議な、少し気違ひ染みた目附きをして女を見てゐた。女はわざと伏目になつたが、燃えるやうな目で見詰めてゐられる内に、押さへ付けるやうな熱のある、名状すべからざる感じが、女の胸の底から湧き上がつて来た。
公爵に勧められて、音楽家は演奏し始めた。それを聞いてゐるクサンチスの心持は、不思議な、目に見えない手が自分の髪を掴んで、種々の印象がからくりのやうに旋《めぐ》つて現はれる世界を、引き摩り廻すかと思ふやうであつた。
折々公爵は、音楽の或る一節を、程好く褒めて、クサンチスの方へ顔を俯向けて、その一節に就いて自分の思つてゐる事を説明した。併し黙つて、魅せられたやうになつて音楽を聴いてゐる女の耳には、公爵の云ふ事は一|言《ごん》も聞えなかつた。その癖音楽家の目は、女に或る新しい理解を教へてゐる。女はこの目を見て、始めて沈鬱の酔《ゑひ》といふものを覚えたのである。
音楽家の家を出るや否やクサンチスは公爵に暇乞をした。我慢の出来ない程の偏頭痛がすると云つてひどく無作法に暇乞をしたのである。そして自分の台の上に帰つて行つた。
今迄知らない感覚がクサンチスを悩ましてゐる。
独り離れてゐて、女は胸の奥深い処から、音楽家の肖像を取り出して、目の前の闇をバツクグラウンドにして、空中に画いてゐる。蒼白い、広い額の下に、深く窪んだ目があつて、その目から時々焔が迸り出る。口は大きく、熱情と沈鬱とをあらはしてゐる。開いた領飾《えりかざり》の間から、半分露はれてゐる頸は、劇しい感情の為めに波立ち、欷歔《すゝりなき》の為めに張つてゐる。先づこんな美しい顔である。
クサンチスは翌日公爵に逢つた時、大層好い青年に引き合せて貰つて難有いと云つて、感謝した。それから後は、この女は自分の生涯が今迄よりひどく面白くなつたやうに思つてゐるのである。
昼の間は公爵を相手にして、所々《しよ/\》を訪問したり、散歩をしたりしてゐる。そして夕方になると、急いで大理石の頭の処へ行く。マドリガルやエピグラムのきらめきに、昼の間《ま》を遊び暮して、草臥《くたび》れた跡で、それとは様子の変つた、彼の青年との交際を楽む事にしてゐる。青年と一しよにゐる心持は、加減の好い湯に這入つて温まるやうである。
青年の家に駈け付けて行くと、駈けた為めに、まだ興奮して、戦慄してゐる体を、青年は
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