である。
ルイ第十五世時代に出来た飾箱の中に、何一つ欠点の挙げやうのない、美しい、小さいタナグラ人形があつた。明色《めいしよく》の髪の毛には、菫の輪飾が戴かせてある。耳朶《みゝたぶ》にはアウリカルクムの輪が嵌めてある。きらめく宝石の鎖が胸の上に垂れてゐる。体が頭の頂から足の尖まで羅《うす》ものに包まれてゐて、それが千変万化の襞を形づくつてゐる。その羅ものの底から、体のうら若い、敏捷な態度が、隠顕出没して、秘密げに解け流れる裸形《らけい》になつて見えるやうである。
この人形の台に彫つてある希臘《グレシア》文字を見れば、この女の名はクサンチスといふものである。生れた土地はクリツサといつて、近くに豊饒《ほうねう》な平野が多く、その外を波の打ち寄せる海に取り巻かれてゐる都会であつた。
クサンチスは実にこの飾箱の中の第一の宝である。
折々クサンチスは台から下へ降りて来て、大勢が感嘆して環《めぐ》り視てゐる真中に立つて、昔アルテミスの祠《ほこら》の、円柱《まるばしら》の並んだ廊下で踊つた事のある踊を浚《さら》つて見る。金の輪を嵌めた、小さい足を巧みに踏んで、真似の出来ない姿をして、踊の段取りを見せる。その間に、自分では知らずに、変幻極まりなく、且最も深遠な事物を表現する。そして踊つてしまつて、真つ直ぐに、誇りの姿をして立つて、両臂をはればれしく頭の上に挙げて、指を組み合はせてゐて、優しい乳房の上に、羅ものが静かに緊張してゐると、名状すべからざる、崇高な美が輝いて、それを見る人は神聖なる震慄《しんりつ》に襲はれるのである。
或る日クサンチスがいつもより一層人を酔はせるやうな踊り方をした跡で、そこへ近所の貴人《きにん》が見舞ひに来た。この人は昔マイセンで出来た陶器人形の公爵である。身なりが上品で、交際振りの丁寧な事は比類がない。顔色にどこか疲れたやうな跡はあるが、まだ美男子たる事を失はない。只戦争に行つたので、首と左の足とは焼接ぎで直してある。
クサンチスには公爵がひどく気に入つた。かすめた声に現はれてゐる疲れが、何事にも打ち勝つて行く青年の光沢よりも、却つて女の心を迷はせるのである。
公爵は長い間女と話をしてゐた。その口から語り出す事は、何もかも女の為めにひどく面白く聞えた。不思議な事には、クサンチスはその話を聞いてゐながら、自分の記憶してゐた故郷の事を思ひ出した。
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