下さい」
 と、花房が止めた。
 花房に黙って顔を見られて、佐藤は機嫌《きげん》を伺うように、小声で云った。
「なんでございましょう」
「腫瘍は腫瘍だが、生理的腫瘍だ」
「生理的腫瘍」
 と、無意味に繰り返して、佐藤は呆《あき》れたような顔をしている。
 花房は聴診器を佐藤の手に渡した。
「ちょっと聴いて見給え。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致している母体の心音よりは度数が早いからね。」
 佐藤は黙って聴診してしまって、忸怩《じくじ》たるものがあった。
「よく話して聞《きか》せて遣《や》ってくれ給え。まあ、套管針《とうかんしん》なんぞを立てられなくて為合《しあわ》せだった」
 こう云って置いて、花房は診察室を出た。
 子が無くて夫に別れてから、裁縫をして一人で暮している女なので、外の医者は妊娠《にんしん》に気が附かなかったのである。
 この女の家の門口に懸《か》かっている「御《おん》仕立物」とお家流《いえりゅう》で書いた看板の下を潜《くぐ》って、若い小学教員が一人度々出入をしていたということが、後《のち》になって評判せられた。



底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社
   1968(昭和43)年5月30日発行
   1985(昭和60)年6月10日41刷改版
   1990(平成2)年5月30日53刷
※底本には、表記の変更に関する以下の注記が見られる。
「本書は旧仮名づかいで書かれていたものを(中略)、現代仮名づかいに改めた。」
 加えて、極端な宛て字と思われるもの、代名詞、副詞、接続詞などは、以下のように書き換えたとある。
…か知ら→…かしら 此→かく 彼此→かれこれ …切り→…きり 此→これ 是→これ 流石→さすが 併し→しかし 切角→せっかく 其→その 大ぶ→だいぶ …丈→…だけ 兎角→とにかく 所で→ところで 只管→ひたすら 迄→まで 儘→まま 矢張→やはり
入力:砂場清隆
校正:松永正敏
2000年8月9日公開
2006年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング