張っているように、口を開《あ》いているので、その長い顔が殆《ほとん》ど二倍の長さに引き延ばされている。絶えず涎《よだれ》が垂れるので、畳んだ手拭で腮《あご》を拭いている。顔位の狭い面積の処で、一部を強く引っ張れば、全体の形が変って来る。醜くくはない顔の大きい目が、外眦《がいさい》を引き下げられて、異様に開《ひら》いて、物に驚いたように正面を凝視している。藤子が食い付きそうだと云ったのも無理は無い。
 附き添って来たお上さんは、目の縁《ふち》を赤くして、涙声で一度翁に訴えた通りを又花房に訴えた。
 お上さんの内には昨夜《ゆうべ》骨牌会《かるたかい》があった。息子さんは誰《たれ》やらと札の引張合いをして勝ったのが愉快だというので、大声に笑った拍子に、顎が両方一度に脱《はず》れた。それから大騒ぎになって、近所の医者に見て貰ったが、嵌《は》めてはくれなかった。このままで直らなかったらどうしようというので、息子よりはお上さんが心配して、とうとう寐《ね》られなかったというのである。
「どうだね」
 と、翁は微笑《ほほえ》みながら、若い学士の顔を見て云った。
「そうですね。診断は僕もお上さんに同意します。両側下顎脱臼《りょうそくかがくだっきゅう》です。昨夜《ゆうべ》脱臼したのなら、直ぐに整復が出来る見込です」
「遣《や》って御覧」
 花房は佐藤にガアゼを持って来させて、両手の拇指《おやゆび》を厚く巻いて、それを口に挿《さ》し入れて、下顎を左右二箇所で押えたと思うと、後部を下へぐっと押し下げた。手を緩《ゆる》めると、顎は見事に嵌まってしまった。
 二十の涎繰《よだれく》りは、今まで腮を押えていた手拭で涙を拭いた。お上さんも袂《たもと》から手拭を出して嬉《うれ》し涙を拭いた。
 花房はしたり顔に父の顔を見た。父は相変らず微笑んでいる。
「解剖を知っておるだけの事はあるのう。始てのようではなかった」
 親子が喜び勇んで帰った迹《あと》で、翁は語《ことば》を続《つ》いでこう云った。
「下顎の脱臼は昔は落架風と云って、或る大家は整復の秘密を人に見られんように、大風炉敷《おおぶろしき》を病人の頭から被《かぶ》せて置いて、術を施したものだよ。骨の形さえ知っていれば秘密は無い。皿の前の下へ向いて飛び出している処を、背後《うしろ》へ越させるだけの事だ。学問は難有《ありがた》いものじゃのう」
 一枚
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング