なり居り、矢張り妻の臥所《ふしど》の側なる揺籃の内に、是も眠り居り候。此手紙を書き終り候はば、小生は妻子の眠り居る室に行き、二人の目を醒さぬやうに静に二人に接吻して此家を立ち出づべく考へ居り候。斯かる些末なる事を精《くは》しく認め置き候は、此手紙を読む人の小生を狂人と思ふが如きことありては遺憾なる故、小生が虚心平気に将来の為を思ひ静に死に就く者なることを証明せむが為に候。此手紙を書き終り候はば、夜の暗きに乗じて人跡絶えたる町をドルンバハに向つてずつと先まで歩み行く考に候。此道は新婚の頃妻と二人にて屡々散歩に行きし道に候。此道の行手には森あれば、其森に行く考に候。此手紙は熟慮したる上にて定めたるものに候。小生の精神の確かなることは是等にて察せられ度候。小生の名はアンドレアス、タアマイエルと申候。当年三十四歳に相成候。墺太利《オオストリア》帝国の貯蓄銀行の役員を勤め居り、ヘルナルゼル町六十四番地に住し居り候。小生の結婚せしは四年前に候。妻は娶りしより前七年間の近附にて、小生を愛し、小生の娶るを待つとて結婚を申込みし者を二人まで却《しりぞ》けしこと有之候。其一人は千八百グルデンの俸給を受くる立派なる役人にて、今一人はトリエスト生れにて妻の里の部屋を借り居る医科の学生なりしが、青年の美男子に候。此二人の申込を拒絶せしに依りて思ふに、妻は富めるにもあらず、美しくもあらざる小生の約束を重んじて、永き年月《としつき》を待ち居りしこと疑ひなかるべく候。世の人は七年間小生の為に辛抱せし妻が、一朝にして小生を欺きしもののやう風聞致し候へども、小生は斯かることは信じ難く候。世の人は智慧足らず、人の不幸を見聞することを喜ぶ者なる故、小生の心中を察しくれざるものと思はれ候。併し此書状を見たる上は、世の人も従来の判断の誤りなりしことを知り、妻の貞婦なることを知りて、小生の自殺を憐み、自殺せずともあるべかりしものをと申すならむと存じ候。さりながら小生より思へば此自殺は必要に候。何故と申すに、小生の生存し居る限は、彼等の嘲笑は止む時有之るまじく候。世の人の皆嘲笑を事とするが中に、只一人は高尚なる思想より小生の心中を察しくれし者有之候。そは老医師ワルテル・ブラウネル氏に有之候。医師は小生に生れし子を見せし時、決して驚き給ふな、又夫人の興奮する如きことを為《な》し給ふな、斯様なることは世間に其類少からず、明日リムビヨツクの著書を君に贈りて君の疑を晴すべしと申候。只今目前に開き居るは此ドクトル、ブラウネル氏の貸しくれし書籍に候。此書籍をドクトルに返却することを遺族に申残し候。其他には申残すべき事も無之候。遺言状は余程以前に認めあり、今日に至りて其内容を変更する必要無之候。何故と云ふに、遺族たる妻は貞操を守りし女にして、子は我が嫡出の子なる故に候。其子の皮膚の色の如何にも異様なるは十分説明すべき理由あることに候。それを異様に解釈するは、世の人の無教育なると悪意あるとの致す所に外ならず、若し世の人にして智慧あり悪意なき者ならば、事実の真相は一般に承認せらるべく、小生も自殺するを要せざることと相成る可く候。不幸にして世の人皆愚にして根性悪しき故、誰も小生の言葉に耳を借すことなく、申合せたる如く嘲笑致し居候。妻の伯父グスタアフ・レンゲルホオヘル氏は小生の平素敬愛し居る人に候へども、初めて我子を見せし時、異様なる面持にて小生に目配《めくば》せ致し候。我が生みの母も初めて孫の顔を見し時、小生に気の毒の感あるらしき様子にて握手致し候。小生の事務所に勤め居る同僚は、昨日小生が出勤せし時、互に顔を見合せて私語《さゝや》き居候。小生の借家の差配人は平素目を掛け居る者にて、昨年のクリスマスにも機械の破損せし懐中時計を子供の玩弄物《おもちや》に致すやうにと贈り遣りしことあるものなるに、昨日《さくじつ》門口にて出逢ひし時、可笑《をか》しさを耐《こら》へ居る如き顔付きを致し候。召使ひ居候下女は何か可笑しさに耐《た》へぬ如く殆ど酒に酔《ゑ》ひたる人かと見ゆる様子を致居候。町の曲り角なる荒物屋の主人は、小生が通り過ぐる毎に後を見送りしこと三四度にして、小生の通り過ぐる時、店に在りし知らぬ老婦人に向ひて、あの男なりと、小生を指さし示し候。斯の如き有様故、此無根の風説の世間に伝はることの速さは想像の外に候。小生の平素全く知らざる人にして、何所《いづこ》より聞き知りしか、此風説を聞き知り居る者有之候。一昨日電車にて宅に帰り候時、車内にて老婆三人話し居るを聞くに、其話は小生の身の上に候。小生の名を称へ居るを明白に聞取候。斯様なる次第故、之に対して小生の為すべき決心は如何なるを至当とすべきか。小生とても有りと有ゆる人に向ひて、ハンベルヒの『自然に於ける不思議』を読め、リムビヨツクの『生れたる子の母の見し物
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