の役を勤めていた士族の娘で、父親に先立たれて、五軒町の借屋に母親と一しょに住んでいる。しかし妙なことには、その家にお兄いさんというのがいて、余程お人好と見えて、お麗さんに家来のように使われている。それが実は壻《むこ》養子に来たものだということである。壻養子に来たのではあるが、お麗さんはその人の妻になりたくないから、家をその人に遣って、自分はどこかへ娵《よめ》に行きたいと云っている。そしてお麗さんの望は、少くも学士位な人を夫に持ちたいというのだそうだ。そこで僕がその選に中《あた》ったという訣《わけ》である。
 お母様にはそのお兄いさんというもののいるのが気に入らない。僕はこの怜悧で活溌な娘が嫌ではないが、早く妻を持とうという気はないのだから、この話はどうなるともなしに、水が砂地に吸い込まれるように、立消《たちぎえ》になってしまった。
 これは性欲問題では勿論無い。そんならと云って、恋愛問題とも云われまい。言わば起り掛かって止んだ縁談に過ぎないが、思い出したから書いて置く。お麗さんは望どおりに或る学士の奥さんになって横浜あたりにいるということである。

      *

 十八になった。
 夏休の間の出来事である。卒業試験が近くなるので、どこかいつもより静かな処にいて勉強したいと思った。さいわい向島の家が借手がなくて明いている。そこへ書物を持って這入《はい》る。お母様が二三日来ていて、世話をして下さる。しかし材料さえ集めて置いて貰えば、僕が自炊をするというのである。お母様は覚束《おぼつか》ないと仰ゃる。
 この話を隣の植木屋が聞いた。お父様が畠に物を作る相談をせられるので、心安くなっていた植木屋である。この植木屋のお上さんが、親切にもこういう提議をした。植木屋にお蝶という十四になる娘がある。体は十六位かと見えるように大きいが、まるで子供である。煮炊《にたき》もろくな事は出来ない。しかし若旦那よりは上手であろう。これを貸してくれようと云うのである。お母様は同意なすった。僕も初から女を置くということには反対していたが、鼻を垂らして赤ん坊を背負っていたのを知っている、あのお蝶なら好かろうというので、同意した。
 お蝶は朝来て夜帰る。むくむくと太った娘で、大きな顔に小さな目鼻が附いている。もう鼻は垂らさない。島田に結っている。これは僕のお召使になるというので、自ら好んで結って貰ったのだそうだが、大きな顔の上に小さい島田髷が載っている工合は随分可笑しい。
 飯の時にはお蝶がお給仕をする。僕はその様子を見て、どうしても蝶ではなくて蛾《が》の方だなどと思っている。見るともなしに顔を見る。少し竪《たて》に向いて附いた眉の下に、水平な目があるので、内眦《めがしら》の処が妙にせせこましくなっている。俯向《うつむ》いてその目で僕を見ると、滑稽を帯びた愛敬がある。
 お蝶は好く働く。僕は飯の時に給仕をさせるだけで、跡は何をしていようと構わない。お菜は何にしましょうと云って来ると、何でも好いから、お前の内で拵《こしら》えるような物を拵えろと云う。そんな風で二週間程立った。
 或日今年は親類の内に往っていると聞いていた尾藤裔一が来た。僕は学科の本に読み厭《あ》きていたので、喜んで話しかけたが、裔一はひどく萎《しお》れている。僕は不審に思った。
「君どうかしているようじゃないか」
「僕は本科に這入《はい》ることは廃《や》めた」
「どうして」
「実は君には逢わずに国へ立ってしまおうと思ったのだ。ところが、親父《おやじ》に暇乞《いとまごい》に来て聞けば、君がいるというので、つい逢いたくなって遣って来た」
 お蝶が茶を持って出た。裔一は茶を一息に飲んで話を続けた。裔一の学資は父親の手から出ていない。木挽町《こびきちょう》に店を出している伯父が出していたのである。その伯父の所帯が左前になったので、いよいよ廃学をしなくてはならないようになった。そこで国へ帰って小学校の教員でもしようかと思っている。しかし教員になるにしても、その旁《かたわら》何か遣りたい。西洋の学問をするには、素養が不十分な上に、新しい本を買うのは容易でない。そこで一時の凌《しの》ぎにと云って、伯父の出してくれた金の大部分は漢籍にしてしまった。それを持って国へ引込んで読むというのである。
 僕は気の毒でたまらなかった。しかし何とも言いようがない。意味のない慰めなんぞを言うと、裔一は怒り兼ない。為方《しかた》なしに黙っていた。
 間もなく裔一は帰ると云った。そして立ちそうにして立たずに、頗《すこぶ》る唐突にこんな事を言い出した。
「僕の伯父の立ち行かなくなったのは、元はおばの為めだ」
「おばさんはどんな人なんだ」
「伯父が一人でいたときの女中だ」
「ふむ」
「それがどうしても離れないのだ。女房に内助なんとい
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