た下島の仲間《ちゆうげん》が立ち塞がつた。「退け」と叫んだ伊織の横に拂つた刀に仲間は腕を切られて後へ引いた。
其隙に下島との間に距離が生じたので、伊織が一飛に追ひ縋らうとした時、跡から附いて來た柳原小兵衞が「逃げるなら逃がせい」と云ひつつ、背後からしつかり抱き締めた。相手が死なずに濟んだなら、伊織の罪が輕減せられるだらうと思つたからである。
伊織は刀を柳原にわたして、しを/\と座に返つた。そして默つて俯向いた。
柳原は伊織の向ひにすわつて云つた。「今晩の事は己を始、一同が見てゐた。いかにも勘辨出來ぬと云へばそれまでだ。しかし先へ刀を拔いた所存を、一應聞いて置きたい」と云つた。
伊織は目に涙を浮べて暫く答へずにゐたが、口を開いて一首の歌を誦した。
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「いまさらに何とか云はむ黒髮の
みだれ心はもとすゑもなし」
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下島は額の創が存外重くて、二三日立つて死んだ。伊織は江戸へ護送せられて取調を受けた。判決は「心得違の廉《かど》を以て、知行召放《ちぎやうめしはな》され、有馬左兵衞佐允純《ありまさひやうゑのすけまさずみ》へ永の御預仰付らる」と云ふことであつた。伊織が幸橋外の有馬邸から、越前國丸岡へ遣られたのは、安永と改元せられた翌年の八月である。
跡に殘つた美濃部家の家族は、それ/″\親類が引き取つた。伊織の祖母貞松院は宮重七五郎方に往き、父の顏を見ることの出來なかつた嫡子平内と、妻るんとは有竹の分家になつてゐる笠原新八郎方に往つた。
二年程立つて、貞松院が寂しがつてよめの所へ一しよになつたが、間もなく八十三歳で、病氣と云ふ程の容體もなく死んだ。安永三年八月二十九日の事である。
翌年又五歳になる平内が流行の疱瘡で死んだ。これは安永四年三月二十八日の事である。
るんは祖母をも息子をも、力の限介抱して臨終を見屆け、松泉寺に葬つた。そこでるんは一生武家奉公をしようと思ひ立つて、世話になつてゐる笠原を始、親類に奉公先を搜すことを頼んだ。
暫く立つと、有竹氏の主家戸田淡路守|氏養《うぢやす》の鄰邸、筑前國福岡の領主黒田家の當主松平筑前守治之の奧で、物馴れた女中を欲しがつてゐると云ふ噂が聞えた。笠原は人を頼んで、そこへるんを目見えに遣つた。氏養と云ふのは、六年前に氏之の跡を續いだ戸田家の當主である。
黒田家ではるんを一目見て、すぐに雇ひ入れた。これが安永六年の春であつた。
るんはこれから文化五年七月まで、三十一年間黒田家に勤めてゐて、治之《はるゆき》、治高、齊隆《なりたか》、齊清四代の奧方に仕へ、表使格に進められ、隱居して終身二人扶持を貰ふことになつた。此間るんは給料の中から松泉寺へ金を納めて、美濃部家の墓に香華を絶やさなかつた。
隱居を許された時、るんは一旦笠原方へ引き取つたが、間もなく故郷の安房へ歸つた。當時の朝夷郡《あさいごほり》眞門村で、今の安房郡江見村である。
其翌年の文化六年に、越前國丸岡の配所で、安永元年から三十七年間、人に手跡や劍術を教へて暮してゐた夫伊織が、「三月八日|浚明院殿《しゆんめいゐんでん》御追善《ごつゐぜん》の爲、御慈悲の思召を以て、永の御預御免仰出され」て、江戸へ歸ることになつた。それを聞いたるんは、喜んで安房から江戸へ來て、龍土町の家で、三十七年振に再會したのである。
[#地から2字上げ](大正四年九月「新小説」第二十年第九卷)
底本:「日本現代文學全集 7 森鴎外集」講談社
1962(昭和37)年1月19日初版第1刷
1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:青空文庫
1997年10月8日公開
2004年3月23日修正
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