恥しく候、さて女の性《しょう》は悪しきものと我ながら驚き候は、大人《おとな》しく横になつてゐた清さんの領《えり》へ私が手を遣《や》りし事に候、その時に清さんは身を縮めてぶるぶると震ひなされ候、女の肌知らぬ人といふではなし、可笑《おか》しな事申すやうではあれど色々の男と寝たことある私、つひにない事、はつと思つて手を引き候とたん何とも申さうやうのない心持《ここち》致し、それまで燃え立つやうに覚え候ふ胸の直様《すぐさま》水を浴《あび》せられ候ふやうになり、ふつつりと思ひ切つて清さんにはその手をさへ常談の体《てい》に申しくろめ、三谷さんの手前湯にといはせて返し候へば、清さんは何ともお思ひなさるまじく飛んだ隙潰《ひまつぶ》しをしたなどと申しをられ候ふ事と存じ候、この始末後にて考へ候ふに、私に罰《ばち》でも当つたのかお前様の念《おもい》が通つてゐたのか、拙《つたな》き心には何とも弁《わきま》へがたく候、この文差上げ候ふ私の心お前様に熟《よ》く分り候はんや覚束《おぼつか》なく候へども、先ほど申し候ふ通《とおり》それはどうでも宜《よろ》しく、ただお前様が清さんを大事にしてさへお上げなされ候はば、私の願もその外《ほか》にはござなく候、返す返すも羨《うらや》ましきは清さんのやうな人をお持なされ候ふお前様の身の上にて、たとひどのやうに憂《う》いつらいと思ふ事ありとも、その憂いつらいは頼《たのみ》になる清さんのやうな優しい人を持たぬものの憂さつらさに比べては何でもないと、よくよく御勘弁なさるべく候、また私の事はこの上未練がましく申したくはなく候へども、今までも不身持な女子《おなご》のこの末はどうなり申すべきか、我身で我身が分り申さず、どうして私はかうなつたやら、どうして私はどうならうか知れぬやら、それはお前様に申しても甲斐《かい》なき事と致し候うて、ここに一つ申し置き候ふは、もし少しにてもこの文の心|御解《おわかり》なされ候はば、昨夕罪のない清さんを罪に堕《おと》さなかつたのは兼吉だ、よしや兼吉が心から罪に堕すまいと思つてではないにしても、罪に堕すことの出来ぬやうな何とも知れぬ心に兼吉はなることがあつたといふ事ばかりに候、この後清さんには指もさすまいと思ふ私に候へば、つひ何事もなかつたやうに御附合のほど祈り入り参らせ候かしく、なほなほこの手紙|御取棄《おんとりすて》なされ候ふとも、清さんに
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