柄と云いながら、今晩わざわざ請待した客の手前がある。どうぞこの席はこれでお立下されい」と云った。
下島は面色《かおいろ》が変った。「そうか。返れと云うなら返る。」こう言い放って立ちしなに、下島は自分の前に据えてあった膳を蹴返《けかえ》した。
「これは」と云って、伊織は傍《はた》にあった刀を取って立った。伊織の面色はこの時変っていた。
伊織と下島とが向き合って立って、二人が目と目を見合わせた時、下島が一言「たわけ」と叫んだ。その声と共に、伊織の手に白刃《しらは》が閃《ひらめ》いて、下島は額を一|刀《とう》切られた。
下島は切られながら刀を抜いたが、伊織に刃向うかと思うと、そうでなく、白刃を提《ひっさ》げたまま、身を飜《ひるがえ》して玄関へ逃げた。
伊織が続いて出ると、脇差を抜いた下島の仲間《ちゅうげん》が立ち塞《ふさ》がった。「退《の》け」と叫んだ伊織の横に払った刀に仲間は腕を切られて後へ引いた。
その隙《ひま》に下島との間に距離が生じたので、伊織が一飛《ひととび》に追い縋《すが》ろうとした時、跡から附いて来た柳原小兵衛が、「逃げるなら逃がせい」と云いつつ、背後《うしろ》からしっかり抱き締めた。相手が死なずに済んだなら、伊織の罪が軽減せられるだろうと思ったからである。
伊織は刀を柳原にわたして、しおしおと座に返った。そして黙って俯向いた。
柳原は伊織の向いにすわって云った。「今晩の事は己《おれ》を始、一同が見ていた。いかにも勘弁出来ぬと云えばそれまでだ。しかし先へ刀を抜いた所存を、一応聞いて置きたい」と云った。
伊織は目に涙を浮べて暫く答えずにいたが、口を開いて一首の歌を誦《じゅ》した。
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「いまさらに何《なに》とか云はむ黒髪《くろかみ》の
みだれ心はもとすゑもなし」
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下島は額の創《きず》が存外重くて、二三日立って死んだ。伊織は江戸へ護送せられて取調を受けた。判決は「心得違の廉《かど》を以て、知行《ちぎょう》召放され、有馬左兵衛佐允純《ありまさひょうえのすけまさずみ》へ永《なが》の御預仰付らる」と云うことであった。伊織が幸橋外《さいわいばしそと》の有馬邸から、越前国《えちぜんのくに》丸岡へ遣られたのは、安永と改元せられた翌年の八月である。
跡に残った美濃部家の家族は、それぞれ親類が引き取った。伊織の祖母|貞松院《ていしょういん》は宮重七五郎方に往き、父の顔を見ることの出来なかった嫡子|平内《へいない》と、妻るんとは有竹の分家になっている笠原新八郎方に往った。
二年程立って、貞松院が寂しがってよめの所へ一しょになったが、間もなく八十三歳で、病気と云う程の容体《ようだい》もなく死んだ。安永三年八月二十九日の事である。
翌年又五歳になる平内が流行の疱瘡《ほうそう》で死んだ。これは安永四年三月二十八日の事である。
るんは祖母をも息子をも、力の限《かぎり》介抱して臨終を見届け、松泉寺に葬った。そこでるんは一生武家奉公をしようと思い立って、世話になっている笠原を始、親類に奉公先を捜すことを頼んだ。
暫く立つと、有竹氏の主家《しゅうけ》戸田淡路守|氏養《うじやす》の隣邸、筑前国《ちくぜんのくに》福岡の領主黒田家の当主松平筑前守|治之《はるゆき》の奥で、物馴れた女中を欲しがっていると云う噂が聞えた。笠原は人を頼んで、そこへるんを目見《めみ》えに遣った。氏養と云うのは、六年前に氏之の跡を続《つ》いだ戸田家の当主である。
黒田家ではるんを一目見て、すぐに雇い入れた。これが安永六年の春であった。
るんはこれから文化五年七月まで、三十一年間黒田家に勤めていて、治之《はるゆき》、治高《はるたか》、斉隆《なりたか》、斉清《なりきよ》の四代の奥方に仕え、表使格《おもてづかいかく》に進められ、隠居して終身二|人扶持《にんふち》を貰うことになった。この間るんは給料の中《うち》から松泉寺へ金を納めて、美濃部家の墓に香華《こうげ》を絶やさなかった。
隠居を許された時、るんは一旦笠原方へ引き取ったが、間もなく故郷の安房へ帰った。当時の朝夷郡真門村で、今の安房郡|江見村《えみむら》である。
その翌年の文化六年に、越前国丸岡の配所で、安永元年から三十七年間、人に手跡や剣術を教えて暮していた夫伊織が、「三月八日|浚明院殿御追善《しゅんめいいんでんごついぜん》の為、御慈悲の思召を以て、永《なが》の御預御免仰出《おあずけごめんおおせいだ》され」て、江戸へ帰ることになった。それを聞いたるんは、喜んで安房から江戸へ来て、竜土町の家で、三十七年振に再会したのである。
底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年4月20日発行
1985(昭和60)年5月20日36刷改版
1994(平成6)年12月15日54刷
入力:蒋龍
校正:noriko saito
2005年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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