柄と云いながら、今晩わざわざ請待した客の手前がある。どうぞこの席はこれでお立下されい」と云った。
下島は面色《かおいろ》が変った。「そうか。返れと云うなら返る。」こう言い放って立ちしなに、下島は自分の前に据えてあった膳を蹴返《けかえ》した。
「これは」と云って、伊織は傍《はた》にあった刀を取って立った。伊織の面色はこの時変っていた。
伊織と下島とが向き合って立って、二人が目と目を見合わせた時、下島が一言「たわけ」と叫んだ。その声と共に、伊織の手に白刃《しらは》が閃《ひらめ》いて、下島は額を一|刀《とう》切られた。
下島は切られながら刀を抜いたが、伊織に刃向うかと思うと、そうでなく、白刃を提《ひっさ》げたまま、身を飜《ひるがえ》して玄関へ逃げた。
伊織が続いて出ると、脇差を抜いた下島の仲間《ちゅうげん》が立ち塞《ふさ》がった。「退《の》け」と叫んだ伊織の横に払った刀に仲間は腕を切られて後へ引いた。
その隙《ひま》に下島との間に距離が生じたので、伊織が一飛《ひととび》に追い縋《すが》ろうとした時、跡から附いて来た柳原小兵衛が、「逃げるなら逃がせい」と云いつつ、背後《うしろ》からしっかり抱き締めた。相手が死なずに済んだなら、伊織の罪が軽減せられるだろうと思ったからである。
伊織は刀を柳原にわたして、しおしおと座に返った。そして黙って俯向いた。
柳原は伊織の向いにすわって云った。「今晩の事は己《おれ》を始、一同が見ていた。いかにも勘弁出来ぬと云えばそれまでだ。しかし先へ刀を抜いた所存を、一応聞いて置きたい」と云った。
伊織は目に涙を浮べて暫く答えずにいたが、口を開いて一首の歌を誦《じゅ》した。
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「いまさらに何《なに》とか云はむ黒髪《くろかみ》の
みだれ心はもとすゑもなし」
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下島は額の創《きず》が存外重くて、二三日立って死んだ。伊織は江戸へ護送せられて取調を受けた。判決は「心得違の廉《かど》を以て、知行《ちぎょう》召放され、有馬左兵衛佐允純《ありまさひょうえのすけまさずみ》へ永《なが》の御預仰付らる」と云うことであった。伊織が幸橋外《さいわいばしそと》の有馬邸から、越前国《えちぜんのくに》丸岡へ遣られたのは、安永と改元せられた翌年の八月である。
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