ネものが、天の上かどこかにあって、自分の教《おす》わった師匠がその電気を取り続《つ》いで、自分に掛けてくれて、そのお蔭《かげ》で自分が生涯ぴりぴりと動いているように思っている。みんな手応《てごたえ》のあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉《じゅんぽう》も出来るのだ。人に僕のかいた裸体画を一枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往《い》かずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ。」
「そんなら君はどうしている。幽霊がのこのこ歩いて来ると思うのか。電気を掛けられていると思うのか。」
「そんな事はない。」
「そんならどう思う。」
「どうも思わずにいる。」
「思わずにいられるか。」
「そうさね。まるで思わない事もない。しかしなるたけ思わないようにしている。極《き》めずに置く。画をかくには極めなくても好いからね。」
「そんなら君が仮に僕の地位に立って、歴史を書かなくてはならないとなったら、どうする。」
「僕は歴史を書かなくてはならないような地位には立たない。御免を蒙《こうむ》る。」綾小路の顔からは微笑の影がいつか消えて、平気な、殆《ほとん》ど不愛想な表情になっている。
 秀麿は気抜けがしたように、両手を力なく垂れて、こん度は自分が寂しく微笑《ほほえ》んだ。「そうだね。てんでに自分の職業を遣って、そんな問題はそっとして置くのだろう。僕は職業の選びようが悪かった。ぼんやりして遣ったり、嘘を衝いてやれば造做《ぞうさ》はないが、正直に、真面目に遣ろうとすると、八方|塞《ふさ》がりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ。」
 綾小路の目は一|刹那《せつな》鋼鉄の様に光った。「八方塞がりになったら、突貫して行く積りで、なぜ遣らない。」
 秀麿は又目の縁を赤くした。そして殆ど大人の前に出た子供のような口吻《こうふん》で、声低く云った。「所詮《しょせん》父と妥協して遣る望はあるまいかね。」
「駄目、駄目」と綾小路は云った。
 綾小路は背をあぶるように、煖炉に太った体を近づけて、両手を腰のうしろに廻して、少し前屈みになって立ち、秀麿はその二三歩前に、痩せた、しなやかな体を、まだこれから延びようとする今年竹《ことしだけ》のように、真っ直にして立ち、二人は目と目を見合わせて、良《やや》久しく黙っている。山の手の日曜日の寂しさが、二人の周囲を依然支配している。



底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社
   1968(昭和43)年4月20日発行
   1985(昭和60)年5月20日36刷改版
入力:高橋真也
校正:湯地光弘
1999年9月23日公開
2006年4月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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