ニ、信仰もなくしてしまい、宗教の必要をも認めなくなってしまって、それを正直に告白している人のあることも、或る種類の人の言論に徴《ちょう》して知ることが出来る。倅はそう云う人は危険思想家だと云っているが、危険思想家を嗅《か》ぎ出すことに骨を折っている人も、こっちでは存外そこまでは気が附いていないらしい。実際こっちでは、治安妨害とか、風俗壊乱とか云う名目《みょうもく》の下《もと》に、そんな人を羅致《らち》した実例を見たことがない。しかしこう云うことを洗立《あらいだて》をして見た所が、確《しか》とした結果を得ることはむずかしくはあるまいか。それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若《も》しそうだと、その洗立をするのが、世間の無頓著よりは危険ではあるまいか。倅もその危険な事に頭を衝《つ》っ込んでいるのではあるまいか。倅は専門の学問をしているうちに、ふとそう云う問題に触れて、自分も不安になったので、己に手紙をよこしたかも知れぬ。それともこの問題にひどく重きを置いているのだろうか。
 五条子爵は秀麿の手紙を読んでから、自己を反省したり、世間を見渡したりして、ざっとこれだけの事を考えた。しかしそれに就いて倅と往復を重ねた所で、自分の満足するだけの解決が出来そうにもなく、倅の帰って来る時期も近づいているので、それまで待っても好いと思って、返信は別に宗教問題なんぞに立ち入らずに、只委細承知した、どうぞなるべく穏健な思想を養って、国家の用に立つ人物になって帰ってくれとしか云って遣らなかった。そこで秀麿の方でも、お父うさんにどれだけ自分の言った事が分かったか知らずにいた。
 秀麿は平生丁度その時思っている事を、人に話して見たり、手紙で言って遣って見たりするが、それをその人に是非十分飲み込ませようともせず、人を自説に転ぜさせよう、服させようともしない。それよりは話す間、手紙を書く間に、自分で自分の思想をはっきりさせて見て、そこに満足を感ずる。そして自分の思想は、又新しい刺戟《しげき》を受けて、別な方面へ移って行く。だからあの時子爵が精しい返事を遣ったところで、秀麿はもう同じ問題の上で、お父うさんの満足するような事を言ってはよこさなかったかも知れない。

     ――――――――――――――――

 洋行をさせる時健康を気遣った秀麿が、旅に出ると元気になったらしく、筆まめに書いてよこす手紙にも生々した様子が見え、ドイツで秀麿と親しくしたと云って、帰ってから尋ねて来る同族の人も、秀麿は随分勉強をしているが、玉も衝けば氷滑《こおりすべ》りもすると云う風で、上流の人を相手にして開いている、某夫人のパンジオナアトでは、若い男女の寄宿人が、芝居の初興行をでも見に行くとき、ヴィコント五条が一しょでなくては面白くないと云う程だと話して聞せるので、子爵夫婦は喜んで、早く丈夫な男になって帰って来るのを見たいと思っていた。
 秀麿は去年の暮に、書物をむやみに沢山持って、帰って来た。洋行前にはまだどこやら少年らしい所のあったのが、三年の間にすっかり男らしくなって、血色も好くなり、肉も少し附いている。しかし待ち構えていた奥さんが気を附けて様子を見ると、どうも物の言振《いいぶり》が面白くないように思われた。それは大学を卒業した頃から、西洋へ立つ時までの、何か物を案じていて、好い加減に人に応対していると云うような、沈黙勝な会話振が、定めてすっかり直って帰ったことと思っていたのに、帰った今もやはり立つ前と同じように思われたのである。
 新橋へ著《つ》いた日の事であった。出迎をした親類や心安い人の中《うち》には、邸まで附いて来たのもあって、五条家ではそう云う人達に、一寸《ちょっと》した肴《さかな》で酒を出した。それが済んだ跡で、子爵と秀麿との間に、こんな対話があった。
 子爵は袴《はかま》を着けて据わって、刻煙草《きざみたばこ》を煙管《きせる》で飲んでいたが、痩《や》せた顔の目の縁に、皺《しわ》を沢山寄せて、嬉しげに息子をじっと見て、只一言「どうだ」と云った。
「はい」と父の顔を見返しながら秀麿は云ったが、傍《そば》で見ている奥さんには、その立派な洋服姿が、どうも先《さ》っき客の前で勤めていた時と変らないように、少しも寛《くつろ》いだ様子がないように思われて、それが気に掛かった。
 子爵は息子がまだ何か云うだろうと思って、暫《しばら》く黙っていたが、それきりなんとも云わないので、詞《ことば》を続《つ》いだ。「書物を沢山持って帰ったそうだね。」
「こっちで為事《しごと》をするのに差支えないようにと思って、中には読んで見る方の本でない、物を捜し出す方の本も買って帰ったものですから、嵩《かさ》が大きくなりました。」
「ふん。早く為事に掛かりたかろうなあ。」
 秀麿は少し返事に躊躇《ちゅう
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