曹ュが好いじゃないか。已《や》むを得んじゃないか。」
「しかし僕はそんな葛藤を起さずに遣っていかれる筈だと思っている。平和な解決がつい目の前に見えている。手に取られるように見えている。それを下手《へた》に手に取ろうとして失敗をすることなんぞは、避けたいと思っている。それでぐずぐずしていて、君にまで意気地がないと云われるのだ。」秀麿は溜息《ためいき》を衝いた。
「ふん、どうしてお父うさんを納得させようと云うのだ。」
「僕の思想が危険思想でもなんでもないと云うことを言って聞せさえすれば好いのだが。」
「どう言って聞せるね。僕がお父うさんだと思って、そこで一つ言って見給え。」
「困るなあ」と云って、秀麿は立って、室内をあちこち歩き出した。
 ※[#「日/(「咎」の「人」に代えて「卜」)」、第3水準1−85−32]《ひかげ》はもうヴェランダの檐《のき》を越して、屋根の上に移ってしまった。真《ま》っ蒼《さお》に澄み切った、まだ秋らしい空の色がヴェランダの硝子戸を青玉《せいぎょく》のように染めたのが、窓越しに少し翳《かす》んで見えている。山の手の日曜日の寂しさが、だいぶ広いこの邸《やしき》の庭に、田舎の別荘めいた感じを与える。突然自動車が一台|煉瓦塀《れんがべい》の外をけたたましく過ぎて、跡は又元の寂しさに戻った。
 秀麿は語を続《つ》いだ。「まあ、こうだ。君がさっきから怪物々々と云っている、その、かのようにだがね。あれは決して怪物ではない。かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈《かが》めたように、僕はかのようにの前に敬虔《けいけん》に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。道徳だってそうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云うことだけ分かって、怪物扱い、幽霊扱いにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣《ふんまん》に堪えない。破壊は免るべからざる破壊かも知れない。しかしその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微《かす》かなような外観のものではあるが、底にはかのようにが儼乎《げんこ》として存立している。人間は飽くまでも義務があるかのように行わなくてはならない。僕はそう行って
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