《たく》の傍《そば》へ行って、雪が取って置いた湯を使って、背広の服を引っ掛けた。洋行して帰ってからは、いつも洋服を著《き》ているのである。
そこへお母あ様が這入って来た。「きょうは日曜だから、お父う様は少しゆっくりしていらっしゃるのだが、わたしはもう御飯を戴《いただ》くから、お前もおいででないか。」こう云って、息子の顔を横から覗《のぞ》くように見て、詞を続けた。「ゆうべも大層遅くまで起きていましたね。いつも同じ事を言うようですが、西洋から帰ってお出《いで》の時は、あんなに体が好かったのに、余り勉強ばかりして、段々顔色を悪くしておしまいなのね。」
「なに。体はどうもありません。外へ出ないでいるから、日に焼けないのでしょう。」笑いながら云って、一しょに洋室を出た。
しかし奥さんにはその笑声が胸を刺すように感ぜられた。秀麿が心からでなく、人に目潰《めつぶ》しに何か投げ附けるように笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成しているのを、奥さんは本能的に知っているのである。
食事をしまって帰った時は、明方に薄曇のしていた空がすっかり晴れて、日光が色々に邪魔をする物のある秀麿の室《へや》を、物見高い心から、依怙地《えこじ》に覗こうとするように、窓帷《まどかけ》のへりや書棚のふちを彩って、卓《テエブル》の上に幅の広い、明るい帯をなして、インク壺《つぼ》を光らせたり、床に敷いてある絨氈《じゅうたん》の空想的な花模様に、刹那《せつな》の性命を与えたりしている。そんな風に、日光の差し込んでいる処《ところ》の空気は、黄いろに染まり掛かった青葉のような色をして、その中には細かい塵《ちり》が躍っている。
室内の温度の余り高いのを喜ばない秀麿は、煖炉のコックを三分一程閉じて、葉巻を銜《くわ》えて、運動椅子に身を投げ掛けた。
秀麿の心理状態を簡単に説明すれば、無聊《ぶりょう》に苦んでいると云うより外はない。それも何事もすることの出来ない、低い刺戟に饑《う》えている人の感ずる退屈とは違う。内に眠っている事業に圧迫せられるような心持である。潜勢力の苦痛である。三国時代の英雄は髀《ひ》に肉を生じたのを見て歎《たん》じた。それと同じように、余所目《よそめ》には痩せて血色の悪い秀麿が、自己の力を知覚していて、脳髄が医者の謂《い》う無動作性|萎縮《いしゅく》に陥いらねば好いがと
前へ
次へ
全26ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング