掛かつてゐますが、その靄の向うを御覧になると海が広く見えてゐるのでございます。」
 僕は恐々《おそる/\》頭を上げて見た。広々とした大洋が向うの下の方に見える。その水はインクのやうに黒い色をしてゐる。僕は直ぐにヌビアの地学者の書いたものにあるマレ・テネブラルムを思ひ出した。「闇の海」を思ひ出した。人間が想像をどんなに逞くしてもこれより恐ろしい、これより慰藉のないパノラマを想像することは、出来ない。右を見ても左を見ても、目の力の届く限り恐ろしい陰気な、上から下へ被《かぶ》さるやうな岩の列が立つてゐる。丁度人間世界の境の石でゞもあるやうに、境の塁壁でゞもあるやうに、その岩の列が立つてゐる。その岩組の陰気な性質が、激しく打ち寄せる波で、一層気味悪く見える。その波は昔から永遠に吠えて、どなつて、白い、怪物めいた波頭を立たせてゐるのである。
 丁度僕とその男との坐つてゐる岩端に向き合つて、五|哩《マイル》か六哩位の沖に、小さい黒ずんだ島がある。打ち寄せる波頭の泡が八方からそれを取巻いてゐる。その波頭の白いので、黒ずんだ島が一際《ひときは》明かに見えてゐる。それから二哩ばかり陸《をか》の方へ寄つて、その島より小さい島がある。石の多い、恐ろしい不毛の地と見える。黒い岩の群が絶え絶えにその周囲に立つてゐる。
 遠い分の島から岸までの間の大洋の様子は、まるで尋常の海ではない。丁度眺めてゐる最ちゆうに海の方から陸の方へ向けて随分強い風が吹いてゐた。この風が強いので、島よりずつと先の沖を通つてゐる小舟が、帆を巻いて走つてをるのに、その船体が始終まるで水面から下へ隠れてゐるのが見えたのである。それなのに島から手前には尋常の海と違つて、ふくらんだ波の起伏が見えないのである。そこにもこゝにも、どつちとも向きを定めずに、水が短く、念に、怒つたやうに迸り上がつてゐるばかりである。中にはまるで風に悖《さから》つて動いてゐる所もある。泡は余り立たない。只岩のある近所だけに白い波頭が見えてゐる。
 その男がかう云つた。
「あの遠い分の島をこの国のものはウルグと申します。近い分の島をモスコエと申します。それから一哩程先に北に寄つてゐるアンバアレン群島があります。こちらの側にあるのがイスレエゼン、ホトホルム、ケイルドヘルム、スアルヱン、ブツクホルムでございます。それからモスコエとウルグとの間の所にあたつてオツテルホルム、フリイメン、サンドフレエゼン、ストツクホルムがございます。まあこんな風な名が一々付いてゐるのでございます。一体なんだつてあんな岩に一々名を付けたのだらうと考へて見ましても、どうもなぜだか分かりません。そら何か聞えますでございませう。それに水の様子が変つて来ましたのにお気が付きませんですか。」
 僕がその男とこのヘルセツゲンの巓へ、ロフオツデンの内側を登つて来てから、大約十分位も経つてゐるだらうか。登つて来る時には、海なんぞは少しも見えなくて、この巓に出ると、忽然《こつぜん》限りもなく広い海が目の前に横たはつてゐたのである。連の男が最後の詞《ことば》を言つた時、僕にも気が付いた。なんだか鈍い、次第に強くなつて来る物音が聞えるのである。譬へて見ればアメリカのプレリイの広野で、ビユツフアロ牛の群がうめいたり、うなつたりするやうな物音である。
 その物音と同時に僕はこんな事に気が付いた。航海者が「跳る波」といふやうな波が今まで見えてゐたのに、忽然そこの水が激烈な潮流に変化して、非常な速度を以て西に向いて流れてゐるのである。見てゐるうちに、その速度が気味の悪いやうに加はつて、劇《はげ》しくなる。一刹那一刹那に、その偉大な激動が加はつて来る。五分間も経つたかと思ふと、岸からウルグ島までの海が抑へられない憤怒《ふんど》の勢ひを以て、鞭打ち起された。中にもモスコエ島と岸との間の激動が最も甚しい。こゝでは恐ろしい広い間の水の床が、生創《なまきず》を拵へたり、瘢痕《はんこん》を結んだりして、数千条の互に怒つて切り合ふ溝のやうになるかと思ふと、忽然痙攣状に砕けてしまふ。がう/\鳴る。沸き立つ。ざわつく。渦巻く。無数の大きい渦巻になつて、普通は瀑布の外には見られないやうな水勢を以て、東へ流れて行くのである。
 又数分間すると、景色が全く一変した。水面は概して穏になつた。そして渦巻が一つ/\消えてしまつた。それに反して今までちつとも泡立つてゐなかつた所が、大きい帯のやうに泡立つて来た。この帯のやうなものが次第に八方に広がつて、食つ付き合つて、一旦消えてしまつた渦巻のやうな回旋状の運動を為始《しはじ》めた。今までの渦巻より大きい渦巻を作らうとしてゐるらしい。
 忽然と云つても、そんな詞ではこの急激な有様を形容しにくい程、極端に急激に、水面がはつきりと際立つてゐる、大きい渦巻になつ
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