ばかりでないのに気が付きました。船より上《かみ》の方にも下《しも》の方にも壊れた船の板片やら、山から切り出した林木やら、生木の幹やら、その外色々な小さい物、家財、壊れた箱、桶、板なんぞが走つてゐます。そのときのわたくしが最初に恐ろしがつてゐたのと違つて、不思議な好奇心に駆られてゐたといふことは、さつきもお話し申した通りでございます。どうもその好奇心が漏斗の底へ吸ひ込まれる刹那が近づけば近づくほど、増長して来るやうでございました。そこで船と一しよに走つてゐる色々な品物を細かに注意して観察し始めました。そしてその品物が底のしぶきの中に落ち込むに、早いのもあり、又遅いのもあるといふところに気を着けて、その後れ先立つ有様を面白く思つて見てゐました。これも多分気が狂つてゐたからでございませう。ふいと気が付いて見れば、わたくしは心の中でこんな事を思つてゐたのでございますね。『きつとあの樅の木が、この次ぎに、あの恐ろしい底に巻き込まれて見えなくなつてしまふのだな』なんぞと思つてゐたのでございますね。それが間違がつて、樅の木より先に、和蘭《オランダ》の商船の壊れたのが沈んでしまつたり何かするのでございます。」
「そんな風な工合に、色々予測をして見て、それが狂ふので、わたくしはとう/\或る事実を発見しました。つまり予測の誤りを修正して行つて、その事実に到達したのでございますね。その事実が分かると、わたくしの手足がぶる/″\と顫えて、心の臓がもう一遍劇しく波立つたのでございます。」
「この感動は今までより恐ろしい事を発見したからではございません。さうではなくつて、意外にも又一縷の希望が萌して来たからでございます。その希望は、わたくしの古くから持つてゐた記憶と、今目の前に見てゐる事とを思ひ合せた結果で、出て来たのでございます。その記憶といふのは、ロフオツデンの岸には、一旦モスコエストロオムの渦巻に巻き込まれて、又浮いて来た色々な品物が流れ寄ることがあつたのでございます。大抵その品物が珍らしく揉み潰され、磨り荒されてゐるのでございます。丁度刷毛のやうにけばだつてゐるのが多かつたのでございます。普通はさうであるのに、品物によつては、まるでいたんでゐないのもあつたのを思ひ出しました。そこでわたくしはかう考へました。これは揉み潰されるやうな分が、本当に渦巻の底へ巻き込まれたので、満足でゐるものは遅く渦巻に巻き込まれたか、又は外に理由があつて、まだ途ちゆうを走つてゐて、底まで行かないうちに、満潮にしろ干潮にしろ、海の様子が変つて来て、渦巻が止んでしまつて、巻き込まれずに済んだのではあるまいかと思つたのでございます。どちらにしても、早く本当の渦巻の底へ巻き込まれずに、そのまゝ浮いて来る品物もあるらしいといふことに気が付いたのでございます。」
「その外、わたくしは三つの重大な観察を致しました。第一は、なんでも物体が大きければ大きいだけ早く沈むといふことなのでございます。第二は二個の物体が同一の容積を持つてをりますと、球の形をしてゐるものが、他の形をしてゐるものよりも早く沈むといふことなんでございます。第三は同一の容積を持つてゐる二個の物体のうちで、その一個が円筒状をなしてゐますと、それが外の形をしてゐるものよりも沈みやうが遅いといふことなのでございます。わたくしは命が助かつた後に、わたくしの郡の学校の先生で、老人のお方がありましたのに、この事を話して見ました。わたくしが只今『球』だの『円筒』だのと申しますのは、そのとき先生に聞いた詞なのでございます。その先生が、わたくしの観察の結果を聞いて、なる程それは水に浮かんでゐる物体の渦巻に巻き込まれる難易の法則に適《かな》つてゐるといふことを説明してくれましたが、また就中《なかんづく》円筒が外の形よりも巻き込まれにくいものだといふことを説明してくれましたが、その理由はもう忘れてしまひました。」
「そこでわたくしがさういふ観察をしまして、その観察の正しいことを自覚して、それを利用しようと致しますまでには、今一つの経験の助けを得たのでございます。それは漏斗の中を廻つて行くとき、船が桶や檣や帆掛棹《ほかけざを》の傍を通り抜けたことがございました。そんな品物が、あとから見れば、初めわたくしの船がその傍を通つた時と、余り変らない位置を保つてゐるといふことに気が付いたのでございます。」
「そこで現在の場合に処するにはどうしたが好いかといふことを考へるのは、頗る容易でございました。わたくしは今まで噛り付いてゐた水樽の繩を解いて、樽を船から放して、わたくしの体をその繩で水樽に縛り付けて、自分が樽と一しよに海へ飛び込んでしまはうと決心したのでございます。そこでその心持を兄きに知らせてやらうと思ひまして、近所に浮いてゐる桶なんぞに指ざしをし
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