てゐる十五分間を利用して、モスコエストロオムの海峡を、ずつと上の方で渡つてしまつて、オツテルホルムかサンドフレエゼンの近所の、波のひどくない所に行つて、錨を卸すのでございました。そこで海の又静になるのを待つて直ぐに錨を上げて、こちらへ帰つて参るのでございました。」
「併しこの往復を致しまするには、行くときも帰るときも、たしかに風が好いと見込んで致したのでございます。わたくし共の見込みは大抵外れたことはなかつたのでございます。六年ほどの間に一度ばかりは向うで錨を下ろしたまゝで一夜《ひとよ》を明して漁をしたことがございました。それはこの辺で珍らしい凪ぎに出逢つたからでございます。それかと思ふと、一度は大約一週間ばかり、厭でも向うに泊つてゐなくてはならなかつたこともございます。そのときは、も少しで餓死する所でございました。それは向うへ着くや否や暴風《あらし》になりまして、なんと思つても海峡を渡つてこちらへ帰ることが出来なかつたのでございます。その帰つたときも、随分危なうございました。渦巻の影響がひどいので、錨を卸して置くわけに行かなくなりまして、も少しでどんなに骨を折つても沖の方へ押し流されてしまひさうでございました。為合《しあは》せな事には、丁度モスコエストロオムの潮流と反対した潮流に這入りました。さういふ潮流は暴風のときに、所々《しよ/\》に出来ますが、今日あるかと思へば明日なくなるといふ、頼みにならない潮流なのでございます。それに乗つて、わたくし共は幸にフリイメンのうちの、風のあたらない海岸へ、船を寄せることが出来たのでございます。」
「こんな風にお話を申しましても、わたくし共の出逢つた難儀の二十分の一をもお話しするわけには参りません。わたくし共の漁場の群島の間では、天気の好い時でも、安心してはゐられなかつたのでございます。併し或るときは、風の止んでゐる時間の計算を、一分ばかり誤つた為めに、動悸が吭《のど》の下までしたやうなことがありましても、兎に角わたくし共はモスコエストロオムの渦巻にだけは巻かれずに済んでゐたのでございます。どうか致すと、船を出す前に思つたより風が足りなくて、船が潮流に反抗することが出来にくゝなつて、船脚が次第に遅くなつて来るやうなときもございました。わたくし共の一番の兄は十八になる倅を持つてをります。わたくしも丈夫な息子を二人持つてをります。そこでそんな風に船脚が遅くなつたときは、あれを連れて来てゐたら、一しよに漕がせて、船脚を早めることも出来たのだらうにと思ひ思ひ致しました。そればかりではございません。向うに着いて漁を致すにも、子供が一しよに行つてゐれば、どんなに都合が好いか知れないのでございます。併しわたくし共は、自分達こそその漁場へ出掛けましたが、一度も子供等を連れて参つたことはございません。なぜと申しまするのに、兎に角その漁場に行くのは、一遍でも危険でないといふときはなかつたからでございます。」
「わたくしの只今お話を致さうと存じますることがあつてから、もう二三日で丁度三年目になるのでございます。千八百何十何年七月十日の事でございました。この所の漁民にあの日を覚えてゐないものはございますまい。開闢以来例しのない暴風《あらし》のあつた日でございますからね。その癖その日は午前一ぱい、それから午後に掛けても、始終穏かな西南の風が吹いてゐたのでございます。空は晴れて、日は照つてゐました。どんなに年功のある漁師でも、あの暴風ばかりは、始まつて来るまで知ることが出来なかつたのでございます。」
「わたくし共三人きやうだいは午後二時頃、いつもの漁場の群島の間に着きまして、船一ぱい魚を取りました。きやうだい達もわたくしも、どうもこんなに魚の取れることは今まで一度もなかつたと、不思議に思つてゐました。それからわたくしの時計で丁度七時に、錨を上げて帰らうと致しました。わたくし共の計算では、海峡の一番悪い所を八時に通る筈でございました。八時が一番海の静なときだと予測してゐたのでございます。」
「丁度好い風を受けて船を出してから、暫くの間は都合好く漕いで参ることが出来ました。危険な事があらうなんぞとは、夢にも思はなかつたのでございます。そんな事のありさうな徴候は一つもなかつたのでございます。」
「突然、妙な風が、ヘルセツゲンの上を越して、吹き卸して参りました。そんな風が吹くといふことは、それまで永年の間一度もなかつたのでございます。そこで、なぜといふことなしに、わたくしは少し不安に思ひ出しましたのでございます。わたくし共は風に向つて、漕いでゐましたが、どうも此様子では渦巻の影響を受けてゐる処を漕ぎ抜けるわけには行かなからうといふやうな心持がいたしました。わたくしは跡へ引き返す相談をしようと思つて、ふいと背後《うしろ》を振り
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