りて組付き、かれこれたがひに声だに立てず、暫し揉合《もみあ》ひたり。
これ唯《ただ》一瞬間の事なりき。巨勢は少女が墜《お》つる時、僅《わずか》に裳《も》を握みしが、少女が蘆間隠れの杙《くい》に強く胸を打たれて、沈まむとするを、やうやうに引揚《ひきあ》げ、汀《みぎわ》の二人が争ふを跡に見て、もと来《こ》し方《かた》へ漕ぎ返しつ。巨勢は唯|奈何《いか》にもして少女が命助けむと思ふのみにて、外《ほか》に及ぶに遑《いとま》あらざりしなり。レオニの酒店の前に来しが、ここへは寄らず、これより百歩がほどなりと聞きし、漁師夫婦が苫屋《とまや》をさして漕ぎゆくに、日もはや暮れて、岸には「アイヘン」、「エルレン」などの枝繁りあひ広ごりて、水は入江の形をなし、蘆にまじりたる水草に、白き花の咲きたるが、ゆふ闇《やみ》にほの見えたり。舟には解けたる髪の泥水にまみれしに、藻屑《もくず》かかりて僵《たお》れふしたる少女の姿、たれかあはれと見ざらむ。をりしも漕来る舟に驚きてか、蘆間を離れて、岸のかたへ高く飛びゆく螢《ほたる》あり。あはれ、こは少女が魂《たま》のぬけ出でたるにはあらずや。
しばしありて、今まで木影《こかげ》に隠れたる苫屋の燈《ともしび》見えたり。近寄りて、「ハンスルが家はここなりや、」とおとなへば、傾きし簷端《のきば》の小窓|開《あ》きて、白髪の老女《おうな》、舟をさしのぞきつ。「ことしも水の神の贄《にえ》求めつるよ。主人《あるじ》はベルヒの城へきのふより駆《か》りとられて、まだ帰らず。手当《てあて》して見むとおもひ玉はば、こなたへ。」と落付きたる声にていひて、窓の戸ささむとしたりしに、巨勢は声ふりたてて、「水に墜ちたるはマリイなり、そなたのマリイなり、」といふ。老女は聞きも畢《おわ》らず、窓の戸を開け放ちたるままにて、桟橋《さんばし》の畔《ほとり》に馳出《はせい》で、泣く泣く巨勢を扶《たす》けて、少女を抱きいれぬ。
入りて見れば、半ば板敷にしたるひと間のみ。今火を点《とも》したりと見ゆる小「ランプ」竈《かまど》の上に微《かすか》なり。四方《よも》の壁にゑがきたる粗末なる耶蘇《ヤソ》一代記の彩色画は、煤《すす》に包まれておぼろげなり。藁火焚《わらびた》きなどして介抱しぬれど、少女は蘇《よみがえ》らず。巨勢は老女と屍《かばね》の傍《かたわら》に夜をとほして、消えて迹《あと》なきうたかたのうたてき世を喞《かこ》ちあかしつ。
時は耶蘇暦千八百八十六年六月十三日の夕《ゆうべ》の七時、バワリア王ルウドヰヒ第二世は、湖水に溺《おぼ》れて※[#「※」は「歹+且」、第3水準1−86−38、66−6]《そ》せられしに、年老いたる侍医グッデンこれを救はむとて、共に命を殞《おと》し、顔に王の爪痕《そうこん》を留《とど》めて死したりといふ、おそろしき知らせに、翌《あくる》十四日ミュンヘン府の騒動はおほかたならず。街の角々には黒縁《くろぶち》取りたる張紙《はりがみ》に、この訃音《ふいん》を書きたるありて、その下には人の山をなしたり。新聞号外には、王の屍見出だしつるをりの模様に、さまざまの臆説《おくせつ》附けて売るを、人々争ひて買ふ。点呼に応ずる兵卒の正服つけて、黒き毛植ゑたるバワリア※[#「※」は上部が「矛+攵」下部が「金」、第3水準1−93−30、66−10]《かぶと》戴《いただ》ける、警察吏の馬に騎《の》り、または徒立《かちだち》にて馳《は》せちがひたるなど、雑沓《ざっとう》いはんかたなし。久しく民に面《おもて》を見せたまはざりし国王なれど、さすがにいたましがりて、憂《うれい》を含みたる顔も街に見ゆ。美術学校にもこの騒ぎにまぎれて、新《あらた》に入《いり》し巨勢がゆくへ知れぬを、心に掛くるものなかりしが、エキステル一人は友の上を気づかひゐたり。
六月十五日の朝《あした》、王の柩《ひつぎ》のベルヒ城より、真夜中に府に遷《うつ》されしを迎へて帰りし、美術学校の生徒が「カッフェエ・ミネルワ」に引上げし時、エキステルはもしやと思ひて、巨勢が「アトリエ」に入りて見しに、彼はこの三日がほどに相貌《そうぼう》変りて、著《し》るく痩《や》せたる如く、「ロオレライ」の図の下に跪《ひざまず》きてぞゐたりける。
国王の横死《おうし》の噂《うわさ》に掩《おお》はれて、レオニに近き漁師ハンスルが娘一人、おなじ時に溺れぬといふこと、問ふ人もなくて已《や》みぬ。
底本:「舞姫・うたかたの記 他三篇」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年1月16日初版発行
1999(平成11)年7月15日36刷
底本の親本:「鴎外全集 第二巻」岩波書店
1971(昭和46)年12月初版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が
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