。課長の出勤するまでには四十分あるのである。
木村は高い山の一番上の書類を広げて、読んで見ては、小さい紙切れに糊板《のりいた》の上の糊を附けて張って、それに何やら書き入れている。紙切れは幾枚かを紙撚《こより》で繋《つな》いで、机の横側に掛けてあるのである。役所ではこれを附箋と云っている。
木村はゆっくり構えて、絶えずこつこつと為事をしている。その間顔は始終晴々としている。こういう時の木村の心持は一寸説明しにくい。この男は何をするにも子供の遊んでいるような気になってしている。同じ「遊び」にも面白いのもあれば、詰まらないのもある。こんな為事はその詰まらない遊びのように思っている分である。役所の為事は笑談《じょうだん》ではない。政府の大機関の一小歯輪となって、自分も廻転しているのだということは、はっきり自覚している。自覚していて、それを遣っている心持が遊びのようなのである。顔の晴々としているのは、この心持が現れているのである。
為事が一つ片附くと、朝日を一本飲む。こんな時は木村の空想も悪戯《いたずら》をし出す事がある。分業というものも、貧乏|籤《くじ》を引いたもののためには、随分詰まらない事になるものだなどとも思う。しかし不平は感じない。そんならと云って、これが自分の運だと諦《あきら》めているというfataliste《ファタリスト》らしい思想を持っているのでもない。どうかすると、こんな事は罷《や》めたらどうだろうなどとも思う。それから罷めた先きを考えて見る。今の身の上で、ランプの下で著作をするように、朝から晩まで著作をすることになったとして見る。この男は著作をするときも、子供が好きな遊びをするような心持になっている。それは苦しい処がないという意味ではない。どんなsport《スポオト》をしたって、障礙《しょうがい》を凌《しの》ぐことはある。また芸術が笑談でないことを知らないのでもない。自分が手に持っている道具も、真の鉅匠《きょしょう》大家の手に渡れば、世界を動かす作品をも造り出すものだとは自覚している。自覚していながら、遊びの心持になっているのである。ガンベッタの兵が、あるとき突撃をし掛けて鋒《ほこ》が鈍った。ガンベッタが喇叭《らっぱ》を吹けと云った。そしたら進撃の譜《ふ》は吹かないで、reveil[#「re」の「e」はアクサン(´)付き]《レウエイユ》の譜を吹いた。
前へ
次へ
全13ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング