は奈何に變更すとも、終に言語を成すことなし。別に單音[#「單音」に白丸傍点](TON)を得て以て標識(MERKMAL)と爲し、始て言語を成すと。JACOB GRIMM も亦曰く。※[#「口+斗」、26−14]聲は呻吟啼泣(WIMMERN, WEINEN)を成すと雖、終に言語を成さず。言語は別に(思量と倶に)贏ち得らるる(ERWORBEN)者なりと。LAZAR GEIGER の説に至りては、獸※[#「口+斗」、27−1][#「獸※[#「口+斗」、27−1]」に白丸傍点](TIERSCHREI)と語※[#「口+斗」、27−1][#「語※[#「口+斗」、27−1]」に白丸傍点](SPRACHSCHREI)とを分ち、物を視て、惧れ又は欲を生じて發するものを獸※[#「口+斗」、27−2]と爲し、物を視、就中運動を視て發聲し、以て語原を作すものを語※[#「口+斗」、27−3]と爲し、語※[#「口+斗」、27−3]を生ずる視官印象は時として繪聲と倶に起ると云へり。餘は之を略す。學人の所謂泣聲即※[#「口+斗」、27−4]聲は想ふに語原を爲さざるべし。之に反して彼 a, u の音及之と b, p, m, d 等との合音は尋常の※[#「口+斗」、27−4]聲に非ず。是れ小兒の早く發し得る所の音なり。若し強ひて之に※[#「口+斗」、27−5]聲の名を命ぜば、或は所謂語※[#「口+斗」、27−5]の稱を用ゐて可ならん歟。此諸音の語原、就中 papa, mama 二語の原となることは、諸家の承認する所にして、WUNDT の書中、父母其子の夙く發する所の音を利用して、己を斥す語と爲すと云へるが如きは、以て學人の説の注脚に充つ可し。次に繪聲的語原の問題に入るべし。單に繪聲と云ふときは意識して音響を摸倣するものに似たり。昔時 TIEDEMANN が言語を以て窘迫の餘、思議して造り出せるものと爲し、音響を摸倣すること(SCHALLNACHAHMUNG)を以て此造出の一方便と爲ししが如きは、其の甚だしきものなり。後の學者は多く以爲へらく。語原の繪聲は故意ならずと。STEINTHAL の繪聲説は、繪聲は音響を摸するに非ず、音響の感情[#「感情」に白丸傍点]を摸するなりと云ひ、視觸等の官を以て、感情に介せられて繪聲の範圍に入ると爲せり。煩を厭ひて細記せず。MUELLER は以爲へらく。繪聲語は甚だ多から
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