教師は弟のように可愛がっているという画家――美校出身の、そして芋銭先生の弟子であるところの――を呼びに、近くまで自転車を走らせたのであった。
「おいS、俺の家へ、いま男爵閣下がお見えになったんだ。いっしょに飲もう。」
「へえ、珍客だな、しかし何という男爵様なんだい。」
「伊田見っていうんだ。」
「ニセじゃないかね。よくそんな奴が田舎を荒し廻るからね。」
「うむ、じつはどうも怪しいから、お前を呼びに来たんだ。」
「じゃ、ひとつ正体を見届けてやるか。」
 二人が勢いこんで取ってかえした時、男爵は風呂から上って来た。そして浮島から歩いて来て、足袋がこの通りになってしまったと笑いながら、その汚れたやつを廊下へ投げすてて、風呂敷包の中から、新しいやつを引っ張り出したのであった。新しいといっても洗濯したものである。閣下……いや、男爵は、そいつの皺を伸ばしながら右足に穿《は》き、もう一方を穿こうとすると、どうしたことか、それも右足の方である。
 男爵は、瞬間妙にてれたが、チョッ、と舌打ちして、それを風呂敷包みの中へ押し込み、左足のを探したが、無い!
「宿へ忘れて来たかな! 仕方がない。」
 ひとりつぶやいて、右足のも脱いで、そのまま座ってしまった。
 その夜は雑談に花が咲いて、無事に過ぎた。男爵はなかなか座談に長《た》けていたのである。いかに怪しいとにらんだからといって、まさか、真っ向からそう訊ねるわけにもいかない。いや、本ものであった場合は、大変な「失礼」にあたってしまう。
        *    *    *
 次の日、男爵は沼へ写生にでも行くかと思いのほか、村の有志訪問と出かけたのであった。最初に、農会長を訪ねた。
「僕、満州に農場をはじめかけているんですよ。約三千町歩ばかりの荒蕪地を払下げてもらってね。大々的に、近代式の機械をつかって、アメリカ式にやろうと思ってね。」
 そしてそのアメリカ式の大経営が、いかに巨大なる利益のあるものであるか。また、そこの従業員や農耕者の雇入れ……いずれ移民を募集するのだが、この辺からも一つ、農会の尽力で、五十名ばかり欲しいものだ。いや、この辺の百姓はなかなか勤勉であるし、次三男諸君も随分いるようである。
 ちょうどそこへは隣村の失業農業技術員Kという青年が来合せていた。男爵はすぐにこのKへ親しみの視線を送り、内地農業の見込みのないこと、将
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