》ね、山野に彷徨して、虫けらを食って生存しているのだが、時々、里へ出現ましまして座像化したり、立像化したりをやらかすのである。
時にはまたひょっこり農家を訪れることもあるのであった。しかしそれは食を乞うためではなかった。彼は生《なま》ものを好み、煮沸したものは好まないらしい。そしてそういう生《なま》のままのものなら、何もわざわざ人家を訪れなくても、野良にいくらでも作られている。実際、虫けらもおらず、作物もない冬季ででもなければ、彼は人がやっても、握り飯やふかし芋は口にしなかった。五十歳に近い彼が若者のように漆黒の毛髪を持ち、三日間も立像化するエネルギーを把持しているというのは、全くこの生《なま》ものの故かも知れなかった。
兼さんが、かかる生活をはじめてから、もう二十五年にはなろう。彼には一人の妹がある。東京で女中奉公しながら、可哀そうな兄貴の世話をしてくれと言って、村の親戚へ、時々五円十円と送って来るそうである。しかし山野いたるところに青山あり、生存方法の存在する兼さんにとって、そうした資本主義社会では神様である重宝なものも、何の役にも立たず、また必要もない。お蔭でその親戚では、思わぬ拾いものをしているとか、いないとか。
兼さんがお寺の門の前へまた座り込んだという話を聞いて、私は彼を訪ねて見た。むろん昔の小学校におけるこの同輩を、彼が記憶しているはずはない。
「兼さん! どうだい。」
言葉をかけても、彼は微動だもしない。人語を喪失した石上の修道者か何かのように、じっと前方を見つめたままである。
神様
村の一部を国道が通じている。そこを約一時間おきにバスが通っている。私の部落からその国道へ下りる坂の下に、ぽつんと一軒の家が建てられはじめている。どこからか壊して来たものらしい。聞いてみると、やはりそうで、そしてこれは実に「神様」の家なのであるという。
ある日、僕が国道のところでバスを待っていると、そこの茶店のお主婦《かみ》さんが、まア、しばらくですね、まだ時間があるようですから、こちらへ腰を下ろしてお待ちなせえよ、と言いながら、もうお茶など汲んで出してくれるのであった。その時、いま見て来た「神様の家」の話をして、いったい、どんな神様なんですかねと訊ねると、へえ、大した神様ですよ、と笑いながら次のようなことを話すのであった。
つい、こないだのこ
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