「こいつ、学校出来ると思って生意気なんだ。……学校ぐれえ出来たって何だっちだ。」
「なぐっちまえ!」
「圭太!」と再びさぶちゃんが言った。
圭太は唖のように黙って突っ立っていた。
「こら! 貴様」
どしんと胸をつかれて圭太はよろよろと二三歩あとへよろけた。
「綾子と貴様は、なんだ?」
「なんでもないさ!」
圭太は一言答えた。
「いいか、貴様、話しなんかしたら、みろ、貴様本当に橋の上から川の中へ突っ込んでやるからな!」
「貴様ばかりでなく、誰だってそうだど」とさぶちゃんはつづけた。「俺、先生だって綾子と変な真似したら用捨はしねえ。ナイフで突っこ抜いてやるんだ!」
それは綾子やその他の大きな女生徒に、笑いながら話をする若い先生に対する戦争の宣言でもあった。
実際、若い先生達は、綾子の――ことは彼女の発達した肉体に異様な眼をそそぐのだ。
彼らはそういう風にとっていた。
さぶちゃんは、往きにもかえりにも、この頃では綾子を待ち伏せ、そして何かを話しかけたり、威しつけたりした。
彼女は圭太のように意気地なしではなかった。さぶちゃんなんか恐れていないようだった。兄があるからかも知れない!
「不良! 碌でなし!」
彼女はいつも一喝するのである。
圭太は胸がすくようだった。
圭太はさぶちゃんが怖いばかりに、つとめて綾子から遠ざかろうとしていた。
が、綾子は反対に、何かと言っては圭太にやさしい眼を向け、話しかけてさえくるのだ。そしてその度ごとに、彼はさぶちゃんから威嚇と、時には本当にステッキを食わされなければならなかった。
夏休みがやってきた。
圭太は永らく病床にあった父を亡くした。
そしてそれは彼にとって、さぶちゃんとも、綾子とも、ふっつりと交渉の断絶を意味していた。
圭太は母を扶けて貧しい父なきあとを働かなければならなかった。
秋の取り入れがすみ、そしてまた春の日がやって来た。橋の欄干を渡らせられ、綾子の柔かい手を感じた頃がめぐって来ていた。圭太は毎日真っ黒になって野良だった。
綾子は町の女学校へ通っているという。そしてさぶちゃんは、中学の試験を受けても駄目だったので、東京へ行った。何とかいう学校へ入ったとか――
圭太は時々綾子の姿を見た。やはりあの橋の上だ――しかし朽ちかけた橋は架けかえられて新しいコンクリートの堂々たるものになった。――彼女はつつましやかに制服を身につけ、希望にかがやきながら、一年前のことなどは遠い昔の忘れられたことほどにも考えないかのように、いそいそとすっかり娘になった身体を運んで行くのだった。
底本:「犬田卯短編集 一」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
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