さがある人もある。これが実子でなくても、自分の子供として教育した人は、実子を持った人と同様な結果になるわけで、親しみが持てるのである。
婦人の丁寧であることは望ましいことであるが、中には非常に言葉数が多くて、先がわかっているのに、廻りくどく話す人がある。そういう人に対しては、聞いている途中で、早く止めて貰いたいと思うことがよくある。ところがそれと反対に、言葉数が少くて、婦人であるのに無愛想な人がある。殊にこの頃の若い女学生たちは、あまり勉強に熱中しているせいか、お客とか、はじめて会った人に対しても、無愛想な場合があるように思われる。心にもない媚び諂いは気持が悪いが、婦人の声や言葉には多少の愛嬌とか潤いとかがありたいものである。
近ごろの世の中は生活においていろいろ苦労があることと思われるが、生活は荒まないようにありたいと思う。心が荒めば従って言葉までが荒んで来る。言葉なり声なりが荒めば、それによって心の荒みを他人に感じさせ、従って他人をも荒ませることになる。われわれは生活は荒んでも、心まで荒まないように心掛けたいものだと思う。
私は常に音楽を教育する立場として、歌わせていて、発音ということが非常に気になる。私の経験では、発音の綺麗なのは関西に多いと思う。もっとも関西もところや土地によって違うが、京、大阪はアクセントは別として、発音は綺麗なように思う。今の長唄、清元、常磐津その他、元は関西から来て長く江戸に流行って、俗に江戸唄と称せられるものの中に、その道の大家の唄われるのを聞くと、月とか花とか風とかいう言葉には関西のアクセントそのままのものが残っている。
例えば、関東の方では「花」という言葉にしても、「は」よりも「な」の方を上げて発音し、関西の方は「は」よりも「な」の方を下げて発音する。そして、唄われる場合に「はー」と「は」を引張って「はーな」とか「つーき」とかそういう風に唄われるので、アクセントのことなどと一向気にならずに、花なら花の気分が出るように思われる。
このほか、国々によって、婦人の声の出し方が違う。これは自分だけの感じか知らぬが、東北の方の寒い地方へ行くと、人々はあまり口を開かずに声を発する。また、極く南の暖かい方へ行くと、口を開いて話し、更に南洋の方へ行くと、裸体で生活しているように、どこか声に締りがないような気がする。
底本:「心の調
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