た。
このような関係で、私は音楽の道に入ったが、作曲をするようになった動機というものは、私の父は十二三歳の頃、私と私の祖母と二人を残して、朝鮮に行ったのである。ところが、あちらで父は獰猛な暴徒に襲われて、重傷をおわされたために、私の学資を送って来なくなった。
私はその頃、二代目中島※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]に就いて、箏を勉強していたが、父からの送金が絶えたので、師匠が教えているお弟子の、下習えというものをして学費を得ていた。私はこうして謝礼を貰って、一種の苦学みたいなことをしていたのである。
私の師匠は教えることに、非常に厳しくて、弟子が一度教わったことを忘れるということはない。一度教えたことを忘れたら、二度と教えてはやらないという風であった。しかし、やはり子供であるから、一度教わっただけでは忘れることがあった。或る日、私が教えて貰った曲を忘れたので、師匠が怒って、思い出すまでは、家に帰らさんといって、夜になっても帰して貰えなかった。そうして、こういう時には、思い出すまでは、食事をさせられないのである。こういう厳しい
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