であるけれども、勉強するには点字があるから不自由はしない。音楽の勉強をしたいと思えば、独逸《ドイツ》で出来ている、点字のオーケストラやピアノの曲の譜面があるので、それを手で探り探り読むのである。
私はいつでも作曲するのに、晩の御飯を食べた後で一寸ひと寝入りして、世間が静かになってから、自分の部屋でコツコツ始めるのである。丁度、学生が試験勉強をするようなものである。或る時は、徹夜をする時もある。そして、夜が更けて、あたりが静まってしまうと、自分の神経の所為か、色々の音が聞こえて来るように思われるのである。
これは人から聞いた話しであるが、西洋の或る作曲家が、山の静かな所へ行くと、山の音楽が聞こえて来る、しかし、それが、はっきりとしたものではないので、楽譜に書き改めることはできないが、しかしやはり何かしら聞こえて来るので、その音楽を掴もうとして掴み得ずに一生を終ってしまったということを聞いたことがある。
私も夜が更けるに従って、色々の音が聞こえて来るのであるが、初めは、形のない、混沌としたしかも漠然としたその曲全体を感じる。それで私は最初に絵でいえば、構図というべきものを考えて、次に段々こまかく点字の譜に、それを書きつけるのである。そうして、作曲する時に、山とか、月とか花とかを、子供の時に見たものを想像しながらまとめてゆくのである。
こうしたわけで、作曲の際とか詩などを読むという場合には、四季のことが人よりも一層深く感ぜられるのである。そうして、私は世の中の音、朝の音、夜の音などを静かに聞いていると、いつかそれに自分の心が誘われて、遠い所へ行っているような気持になることがある。
次に、同じ雨の音でも春雨と秋雨とでは、音の感じが全然違っている。風にそよぐ木の音でも、春の芽生えの時の音と、またずっと繁った夏の緑の時の音とは違うし、或は、秋も初秋の秋草などの茂っている時の音と、初冬になって、木の葉が固くなってしまった時の音とは、また自ら違うのである。それから、紅葉の色も、自分には直接見えないけれども、その側に行くと、自分には何となくその感じがする。
私は或る時、音楽学校から岐阜へ演奏旅行に行ったことがある。その時は、昼と夜と二度演奏をしたのであるが、昼の演奏を済ませてから、知事さんの招待で長良ホテルという所に行った。そして、私の傍に居合わせた者が皆、景色がよいといっていたが、私も何となく、河原が広いという感じがしたし、東京を遠く離れてやって来たという感じが沁々としたのである。昔、在原業平が遠く都を離れて東《あずま》へ来た時に、都鳥を見て読んだ、
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名にしおはばいざこと問はん都鳥
我が思ふ人はありやなしやと
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という歌を思い出して、私は何か知らそういった気持になったことがあった。
今日はスピード時代で、東京を遠く離れた所も汽車でわけなく行かれるのであるが、しかし、旅で夕方などになると、随分遠い所に来たような感じがする。これは音楽に関係したことではないけれど、私はスピードという言葉で思い出したが、最近はフランスあたりから飛行機で、四日間ぐらいで日本に飛んで来られるようになっている。そういうことのある度に、私は残念に思っていることは、自分の頭や、仕事は、なかなかスピードが出ないことである。私は将来まだ沢山研究したい事があるので、それをやり遂げるためには、今よりもっと、頭にスピードをかけて、勉強しなければならないと思っているのである。
底本:「心の調べ」河出書房新社
2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「水の変態」宝文館
1956(昭和31)年8月1日
入力:貝波明美
校正:小林繁雄
2007年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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