お稽古を受けたのであった。これは今から考えると、大変野蛮なことのように思われるが、私はお腹がすいた時が、一番頭がはっきりする。従ってお腹のすいた時程、考えがまとまるのである。今でも何か考え事をする時は、余り沢山食べないように加減している。
これからまた、冬には、寒稽古といって、千遍弾きということをやる。それは同じ曲を何日もかかって弾くのである。昔の人は万遍弾きといって、お宮のお堂に立て籠って徹夜で弾く。眠くなると、箏を弾いている姿勢のままで、うつむいて寝てしまい、目が醒めるとまた、弾き出すのである。こういう風に、昔の人は私たちよりも、まだ一層厳しい稽古をしたのである。
私は十四歳の時に、父から呼ばれて朝鮮へ渡った。私が朝鮮に行ってからは、誰も教わる先生がなかったので、私は毎日、自分の師匠から習った曲ばかりを弾いていたが、しかし、それだけではどうも私には物足りなかった。
その頃、私たちは仁川に住んでいたのである。丁度、私の家は小学校の下にあったので、私は学校の生徒が歌う唱歌や西洋の音楽などが聞こえて来るのを楽しみにしていた。それからまた、家の前が原っぱになっていたので、色々自然の音も聞くことができた。雨の音や霧の音などを聞いて自然の音を楽しみ、その中から得た印象によって、それを基にして、何か作曲してみたいと思っていた。丁度その折、私の弟がいつも読んでいた読本の中に、水の変態というのがあって、それは七首の歌によって、水が霧、雲、雨、雪、霞、露、霜と変って行くことが詠まれていたのである。
私はそれにヒントを得て、「水の変態」という曲を作った。この曲は自分のものとしてはまだ、昔のお箏の手型からあまり出てはいなかったのである。元来、日本の箏の曲というものはハーモニーが考えられていないので、私はどうしても、日本の音楽にも必ずハーモニーが必要であると感じたので新しい作曲をする上について、西洋音楽を聞き、また、洋楽の先生に訊ねたりして、色々と工夫したわけである。それから年を経るに従って、私は朝鮮のようなところでなく、都会へ行って、勉強もしたり、また、一旗挙げたいと思って、東京へやって来たのである。それで私はまだ色々研究して、自分の芸を勉強しなければならぬと思っている。そして、自分の芸を完成させるためには、自分の一生が二度あっても三度あっても足りないと思っている。
私は盲人
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