れる。それに朝の日光が当ると、美しいとみんなが言った。また冬には、かささぎの声が珍らしかった。
三寒四温といって、思いがけなく暖かい日もあった。
春が来るのは遅かったが、春になると鳥の声が長閑かであった。夏の昼間はきびしいが夕風が立つと、夜寒を感じるのであった。
眼で見る楽しみのない私には、この自然の音や、気候を感じるのが楽しかった。
私は学校へ行けなかったが、学問が好きで弟の勉強して居る側に何時も附いていて、いろいろ聞き覚えをしていたが、読本の中に、水の変態と言うのがあって、水が霧、雲、雨、露、霜といろいろに変るという和歌であった。
私はそれを聞いて面白く感じたので、十六歳の時、この歌によって、初めて水の変態の作曲を試みた。
私はその頃から、東京を憧れて何とかして、東京へ出て一勉強したいと思い、一生懸命かせいでいたが、かせいでも、かせいでも、家族が多いので貧乏は続いた。
私のおばあさんは、私が不自由なのでどの孫よりも可愛いといって、二つの年から面倒を見て可愛がってくれたが、そのおばあさんが突然死んで往った。私は頼りない気がして悲しかった。しかし父は身体もよくなって勤められるようになった。
私は人の薦めによって、京城へ移って行った。京城に居る中に、友人で文学少年があって、それが私に新しい小説や、西洋の有名なものの翻訳など、いろいろ文学に関する本を読んで聞かせてくれたり、夜になると散歩に連れて歩いてくれた。南山に登ったり、静かな町を歩いたりしながら、若い心持を語り合ったことを今でも想い出す。
その頃京城に、日希商会というのがあってその店のギリシャ人が、私に西洋のレコードが新しく入ると、何時もいろいろ聞かせてくれた。私はしまいには、工面をしてレコードを時々買うようになった。
その頃は、西洋音楽のレコードは、未だ一般にあまり知られていないようであった。
面白いことに私は、何も知らないで聞いて自分の好きなのを求めて来たが、あとで見て貰うと、それが西洋の有名な曲であったりした。私はこのレコードを聞いている中に、箏の曲にも和声や、対位法を取り入れたいと思って、箏の四重奏などいろいろ試みた。
人は一心にやっておれば、また恵まれる時も来るもので、私は大正六年に機会を得て、宿望の東京へやっと出て来たが、東京へ来てからも、またいろいろの方面で困った。
それが少し楽になりかけた頃に、東京の大震災に会った。その後少しよくなったと思うと、今度は戦災で家や、楽器や、その他とりかえしのつかない物も焼けてしまい、また一から出直すことになったが、私の人生は芸の旅で、命ある限り修業である。
これからも若い者に劣らないように、勉強したいと張り切っている。
底本:「心の調べ」河出書房新社
2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「古巣の梅」雄鶏社
1949(昭和24)年10月5日
入力:貝波明美
校正:小林繁雄
2007年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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