い」は、底本では「なさい」]。猫に喰ひ殺されようとしてゐる鼠が、猫に情をかけることは出來ない。故に、私はダイヤー將軍及その一味の者に對して、彼等の罪惡に相當する懲罰を加へよと叫ぶ人々の感情が分る。彼等は若し出來ることなら、ダイヤー將軍を八ツ裂きにしたいと思つてゐるのだ。私は自分が無力な弱者であるとは思つてゐない。ただ私は印度の力と自分の力をより良き目的のために用ゐたいと考へてゐるだけだ。
 私の云ふことを誤解してくれては困る。力は體力から生ずるものではない。それは不屈不撓の意志から生ずるのだ。普通のズールー人は體力では普通の英國人よりも遙かに優れてゐる。所が、ズールー人は英國人の少年を見ると怖がつて逃げる。それは、その少年の持つてゐる拳銃、又は少年のために拳銃を用ゐる人を怖れるからである。彼等は死を恐れるのだ、從つて身體が逞しいのに似合はず臆病なのだ。吾々はこの印度に於て、十萬の英國人が三億の人間を脅かす必要のない事を直ぐ悟り得るであらう。それ故に、思ひ切つた情けは吾々の力の確認を意味する。文化的な情けと同時に、吾々の心の中に、ダイヤーやフランク・ジヨンソンの如き徒をして、敬虔な印度人の頭に再び侮辱を加へしめないやうな強大な力の波が起らねばならぬ。現在私が自分の目的を達し得ないことは、私にとつては何でもないことだ。吾々は腹を立てず、怨を抱かずにゐるには、あまりに踏みつけられてゐることを感ずる。けれども私は、印度は懲罰の權力を振ふことによつてより利益を得ると公言することを控へなくてはならない。吾々は、世界のためになすべきより良き仕事と、宣べるべきよりよき使命を有つてゐる。
 私は夢想家ではない。私は實行的理想家でありたい。非暴力の宗教はただ聖徒や賢者のためにあるのではない。それは又普通人のためにあるのだ。暴力が動物の法則であるやうに、非暴力は人類の法則なのだ。動物にあつては精神は眠つてゐる、動物は體力の法則の他には何等の法則を知らない。萬物の靈長たる人間は、それよりもより高い法則――精神の力に從ふを要する。
 それ故に、私は敢て印度に自己犧牲といふ古い法則を提供したのだ。何となれば、サチヤグラハ(眞理の把持、眞理の力)及びそれから生れた「非協同」や「市民的不服從」は、受難の法則の新らしい名前に過ぎないからである。暴力の眞只中に於て非暴力の法則を見出した聖者たちは、ニユ
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