泉鏡花先生のこと
小村雪岱
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)豊国《とよくに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)久保|猪之吉《いのきち》氏
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私が泉鏡花先生に初めてお眼にかかったのは、今から三十二、三年前の二十一歳の時でした。丁度、久保|猪之吉《いのきち》氏が学会で九州から上京され、駿河台の宿屋に泊っておられ、豊国《とよくに》の描いた日本で最初に鼻茸を手術した人の肖像を写すことを依頼されて、その宿屋に毎日私が通っている時に、鏡花先生御夫妻が遊びに見えられて、お逢いしたのでした。
久保氏夫人よりえさんは、落合直文門下の閨秀《けいしゅう》歌人として知られた方で、娘時代から鏡花先生の愛読者であった関係から親交があったのです。
当時、鏡花先生は三十五、六歳ですでに文運隆々たる時代であり、たしか「白鷺」執筆中と思いましたが、二十八、九歳の美しいすゞ子夫人を伴って御出《おいで》になった時、白面の画工に過ぎなかった私は、この有名な芸術家にお逢い出来たことをどんなに感激したかわかりませんでした。その時の印象としては、色の白い、小さな、綺麗な方だということでした。爾来《じらい》今日に至るまで、先生の知遇をかたじけなくする動機となったわけです。
鏡花先生は、その私生活においては、大変に人と違ったところが多かったようにいわれておりますが、私などあまりに近くいたものには、それほどとも思われませんでした。何故ならば、先生の生活はすべて先生流の論理から割り出された、いわゆる泉流の主観に貫かれたもので、それを承るとまことに当然なことと合点されるのです。即ち人や世間に対しても、先生自身の一つの動かし難い個性というか、何かしら強味を持っておられた人で、天才肌の芸術家という一つの雰囲気で、凡《すべ》てを蔽《おお》っておられました。その点偏狭とも見られるところもありましたが、妥協の出来ない人でした。しかしその故にこそ、文壇生活四十余年の間、終始一貫いわゆる鏡花調文学で押し通すことの出来たわけでもあり、文壇の時流から超然として、吾関せず焉《えん》の態度を堅持し得られたものと思われます。
先生が生物《なまもの》を食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年のあいだ粥《かゆ》ばかりで過ごされたことが動機であって、その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神経的な激しい嫌悪にまでなってしまったのだと承りました。
大体に潔癖な方ですから、生物を食べなくなってからの先生は、如何《いか》なる例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もってのほかのことであり、お吸物の中に柚子《ゆず》の一端、青物の一切が落としてあっても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生が怖くて茹《ゆ》でて食べるといった風であり、果物なども煮ない限りは一切口にされませんでした。
先生の熱燗《あつかん》はこうした生物嫌いの結果ですが、そのお燗の熱いのなんのって、私共が手に持ってお酌が出来るような熱さでは勿論駄目で、煮たぎったようなのをチビリチビリとやられました。
自分の傍に鉄瓶がチンチンとたぎっていないと不安で気が落着かないという先生の性分も、この生物恐怖性の結果かも知れません。
生物以外に形の悪いもの、性《しょう》の知れないものは食べられませんでした。シャコ、エビ、タコ等は虫か魚か分らないような不気味なものだといって、怖気《おぞけ》をふるっておられました。ところが一度ある会で大変良い機嫌に酔われまして、といっても先生は酒は好きですが二本くらいですっかり酔払ってしまわれる良い酒でしたが、どう間違われてか、眼の前のタコをむしゃむしゃ食べてしまわれました。それを発見して私は非常に吃驚《びっくり》しましたが、そのことを翌日私の所へ見えられた折に話しをしましたら、先生はさすがに顔色を変えられて、「そういえば手巾にタコの疣《いぼ》がついていたから変だとは思ったが――」といってられるうちに、腹が痛くなって来たと家へ帰ってしまわれた。まさか昨晩のタコが今になって腹を痛くしたのではないのでしょうが、私はとんだことをいったものだと後悔しました。
またある時、先日なくなられた岡田三郎助さんの招待で、支那料理を御馳走になったことがありました。小さな丸い揚げ物が大変に美味しく、鏡花先生も相当召し上がられたのですが、後でそれが蛙《かえる》と聞いて先生はびっくりし、懐中から手ばなしたことのない宝丹を一袋全部、あわてて飲み下して、「とんだことをした」と、蒼《あお》くなっておられた時のことも今に忘れません。
好んで召し上がられたものは、野菜、豆腐、小魚などのよく煮たもの
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