大いに世界を騒がせたもんだ。そしてその精虫を初めて発見した人は、東京大学理科大学植物学教室に勤めていた、一画工の平瀬作五郎《ひらせさくごろう》氏(その肖像が昭和三年九月発行の『植物研究雑誌』第四巻第六号に出ている。同氏の顔を知りたい方はそれを看るべしだ)であって、その発見はじつに明治二十九年(1896)の九月であった。
こんな重大な世界的の発見をしたのだから、普通なら無論平瀬氏は易々と博士号ももらえる資格があるといってもよいのであったが、世事魔多く底には底であって、不幸にもその栄冠を贏《か》ち得なかったばかりでなく、たちまち策動者の犠牲となって江州は琵琶湖畔彦根町に建てられてある彦根中学校の教師として遠く左遷せられる憂目をみたのは、憐れというも愚かな話であった。けれども赫々たるその功績は没すべくもなく、公刊せられた『大学紀要』上におけるその論文は燦然《さんぜん》としていつまでも光彩を放っている。宜《む》べなる哉、後ち明治四十五年(1912)に帝国学士院から恩賜賞ならびに賞金を授与せられる光栄を担った。
このイチョウの実の中にある精虫を発見したその材料の樹、すなわち眼を傷つけてまでも
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