産地が殖えたわけだ。その後、さらにシベリア東部の黒竜江の一部にもこれを産することが分かり、遂に世界の産地が飛び飛びに五カ所になつた。
日本では、上記の小岩村での発見後、それが利根川流域の地に産することが明らかとなり、更に大正十四年一月二十日に山城の巨椋《おぐら》池でも見出された。この発見者は当時京都大学の学生だつた三木茂博士であつた。この池のムジナモは干拓のため不幸にして、その影響を蒙り、惜しいことには、遂に絶滅してしまつた。
ムジナモは「貉藻」の意で、その発見直後、私のつけた新和名であつた。即ちそれはその獣尾の姿をして水中に浮んで居り、かつこれが食虫植物であるので、かたがたこんな和名を下したのであつた。
このムジナモは緑色で、一向に根はなく、幾日となく水面近くに浮んで横たわり、まことに奇態な姿を呈している水草である。一条の茎が中央にあつて、その周囲に幾層の車輻状をなして沢山な葉がついているが、その冬葉には端に二枚貝状の嚢がついていて、水中の虫を捕え、これを消化して自家の養分にしているのである。故に、根は全く不用ゆえ、固よりそれを備えていない。また、葉の先きには四、五本の鬚がある。
前に書いたように、明治二十三年五月十一日にこのムジナモが発見せられた直後、私はこの植物のもつとも精密な図を作らんと企てた時に当つて、不幸にして私にとつては甚だ悲しむべき事件が、私と矢田部教授との間に起つた。
その時分、私は「日本植物志図篇」と題する書物を続刊していたが、にわかに矢田部氏が私とほぼ同様な書物を出すことを計画し、私は完然植物学教室の出入りを禁じられてしまつた。
その時は、まだ私が大学の職員にならん前であつたが、どうも仕方がないので止むを得ず、私は、農科大学の植物学教室に行つて、このムジナモの写生図を完成した。後に、それを「植物学雑誌」で世界に向つて発表した。そして、このムジナモはわが国の植物界でも極めて珍らしい食虫植物として、いろいろの書物に掲げられて、日本でも名高い植物の一つとなつた。
ここに、このムジナモに就て、特筆すべき一つの事実がある。それは世界に向つて誇つてもよい事柄である。即ち、それはこの植物が、日本に於て特に立派に花を開くことである。私はこれを、明瞭に且つ詳細に私の写生図の中へ描き込んで置いた。
どうした理由のものか、欧洲、インド、濠洲等のこのム
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