国総領事セワードにもたらした者に、F・B・ジェンキンスというのがある。文献によってはたんに米人冒険者といいあるいは米国市民とのみ記すが、「前米国領事館通訳官、幼少からシナ語を習得して、書くこともできた」というのが本当らしい。
総領事セワードはジェンキンスの報告に基づいて、本国政府に、自己を朝鮮開国交渉特使に任ぜられたいと禀請《りんせい》した。折返し本国政府からの訓令で、全権として在北京米国公使ロウを任命し、国威を示すに足る艦隊を付属するということになった。朝鮮でフランスは失敗している、英国は文句をつけたくも手がかりがない、北ドイツ連邦は、二年前にできたばかりでまだ極東政策を確立していない。いまこそ米国が対朝条約のイニシアチヴをとらなければならない。米国としては一方サープライズ号救助の感謝、他方シャーマン号事件の糺明、恩威ならび行うための口実に事を欠かないのだから――内訓はこうした意味を伝えていた。とかくするうち、朝鮮にとって三度目の、実に怪しからぬ洋夷事件が起った。
一八六八――李太王《りたいおう》五年四月十七日、一隻の黒船が、忠清《ちゅうせい》道|牙山《かざん》湾の行担《ハンタン》島に投錨した。そこから小艇に乗換えて插橋川《そうきょうせん》を遡行し、九万浦《きゅうまんほ》付近で上陸した洋夷の一隊は、自ら俄羅斯《オロス》国(ロシア)軍隊と揚言しつつ、忠清道|徳川《とくせん》郡|伽洞《かどう》にある大院君の父王、南延君球《なんえんくんきゅう》の陵に向った。
守衛および伽洞民衆は逃散してしまう。洋夷は王陵の発掘をはじめたが、どうしたわけか中途でやめて、行担島へ引揚げたのが四月二十日(旧暦)。
入違いに忠清監司|閔致痒《みんしよう》が軍隊を率いて徳川に馳行する。洋夷は船を行担島からさらに江華島南方の東検《とうけん》島に移して、上陸、ここで朝鮮軍隊と衝突して敗走した。
大院君摂政時代にはいって三度目の勝利である。永宗僉使《えいそうせんし》申考哲《しんこうてつ》がこの戦勝を京城《けいじょう》に報告した文中に「…………傷《きずつ》く者はなはだ衆《おお》し。溺水《できすい》して死する者|的数《てきすう》を知らず。故にあえて枚陳せず。ただ二賊首をもって東門に斬懸し、もって賊衆を威す!」とある。二賊首はすぐさま京城に送られ、改めて軍民に梟示《きょうじ》して、おおいに戦勝を祝
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