ろうと考えていたのである。こんどの太平洋戦争で、まず沖繩をおとし、つぎに日本本土に向うことになっていたのとちょうど同じことだ。

[#7字下げ]開国派と攘夷派[#「開国派と攘夷派」は中見出し]

 太平の眠をさました黒船の来航は国内に開国派と攘夷派の抗争となって波紋をひろげていった。ところで同じく開国派といい、攘夷派といっても、それぞれ二種類があった。
 開国派の一方には、井伊《いい》大老の一派がいる。腹の中では開国すれば古い自分たちの権力が保てないことを知りつつも、なお一時の権勢を保とうとするための開国派である。もう一つは真の開国派で、ふるくは安藤昌益《あんどうしょうえき》、佐藤|信淵《のぶひろ》から、渡辺|崋山《かざん》、高野長英《たかのちょうえい》を経て、ペリー来航当時は佐久間象山《さくまぞうざん》、橋本左内などがその代表者であった。これらの人びとは、世界の進運に深く思いをいたし、憂国の至情から開国を主張した愛国派である。だから時の権力から烈しい弾圧を受けたのであった。
 攘夷派にも同じく封建支配者の攘夷と人民の攘夷の二派があった。前者の例は生麦《なまむぎ》で薩摩《さつま》の武士がイギリス人を斬った、いわゆる生麦事件に代表されるものであり、後者はたとえば対馬《つしま》が占領されたとき最後まで反抗した対馬の住民であった。民間から攘夷に参加した紀州の浜口梧陵《はまぐちごりょう》、尾張の林金兵衛《はやしきんべえ》あるいは天狗党にはせ参じようとした河野広中《こうのひろなか》、その他文久年間の過激攘夷決行派のなかに大ぜいおった。武士でなく当時の人民の生産力を代表する若いブルジョアジーの攘夷が後者を代表する。これら四派がきり結ぶなかに明治維新へと歴史は進んでいく。

[#7字下げ]積年の野望[#「積年の野望」は中見出し]

 日本開国の先べんをつけたアメリカが、その直後に起った南北戦争に手をしばられている間に日本貿易の果実はイギリスの手に帰した。やがて日本にも明治維新の変革が、フランスに支援された幕府とイギリスに支持された天皇の両派の、どちらも封建的な同一階級同士の権力争奪戦という形で、革命ではなく一種の改革が行われることになった。
 だがアメリカは日本を水先案内とするアジア進出の積年の野望をとげようとして乗り出してきた。その最初の現れはグラント将軍の琉球問題あっせんで、
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