述べる汽船も若干入っているが、ほとんど帆船で、あり合せのいっさいの船が動員された。そのため太平洋従来の捕鯨業はぱったりになった。そのくせ金門湾には百艘以上の船が繋船されて、病院になったり倉庫になったりホテルに使われたり仮監獄にあてられたり、あるいは空しく荒廃に委されていた。船員がおさらばをきめてゴールドラッシュしたのだ。ついに船員に二百ドルの月給が支給されたが、金鉱夫になるとらくに一日三十ドルになった(もっとも物価の方も、たとえば茶、珈琲《コーヒー》、砂糖が一ポンド四ドル、靴一足四十五ドル、肝心な金掘道具の鶴嘴《つるはし》やショベルが五ドルから十五ドル、という有様だった)。
ざっとこんな海の黄金狂時代のなかから、われわれは二つの新しい現象を見わけることができる。第一は一八四七年に創立され、四九年からニューヨーク・サンフランシスコ間の定期航路を開始した太平洋郵船《パシフィック・メイル》の汽船航路である。第二は、五〇年末からはじまったいわゆるカリフォルニア・クリッパーの帆船航路であった。
このうち第二のものは五〇年正月のマルクスの眼には映じていなかった。その正月三十一日にロンドンで書か
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