便益を利用し、これに加えるに建白書が提案している太平洋ラインをもってすれば、リヴァープール・シナ間の交通は六十日に縮少され、かくてロンドンからシナにいたる冒険的な往復路は、合衆国を経過することによって五ヶ月以内に縮少されることを得、現在の所用日数を半減してなお余りあるものとなる」。
[#ここで字下げ終わり]
 太平洋横断汽船路の設定が、シナにたいするロンドンとニューヨークの地位を顛倒《てんとう》するという見通しの点で、この報告書とマルクスの評論は一致するが、海軍専門家の推論は、何らの経済学的なものを含まず、かえって与えられた交通機関にたいする一見不当な比較に基づいている。
 太平洋上の汽船路設定が、パナマ地峡連絡を利用するとき当年の交通技術をもってしてニューヨークをマカオから六十日以下の距離内に近づける、これに間違いない。しかしながら同じく汽船でスエズの地峡連絡を利用した英国のP&Oラインは、同じ一八五〇年の記録で上海、ロンドン間を七十八日、五九年の記録で五十九日で結んでいる。地理上の距離そのもので比較しても、スエズ運河と同様にパナマ運河が利用できるようになったとき、上海からスエズ経由ロンドンへの距離とパナマ経由ニューヨークへの距離とは同一だった。つまり上海以西ならばロンドンに近く、以東ならばニューヨークに近い。
 海軍委員会の報告は比較をリヴァープール(ロンドン)・シナ間――喜望峯経由――ないしニューヨーク・シナ間――ケープホーン経由――の帆船所要日数と新設汽船航路の推定日数との間で行った、はなはだ身勝手な推論だった。だがそれにもかかわらず、この推論に、ある種の合理的な理由が存在していなかったろうか?
 彼阿《ピーオー》ラインといわず、すべて五十年までの汽船は、貨物輸送の点で帆船と競争する能力がなかった。まだ複式機関が発明されてなく、マリンエンジンはすべて低圧の単気筒式だったから――おまけに海水を使っていた――おそろしく石炭を食って金がかかるうえに、寄港地を欠く大洋航海では炭庫に場所を塞がれて貨物庫の余裕が思うほど取れない。だから当年の彼阿《ピーオー》ラインなども、今日の飛行機のように旅客および政府補助金付の郵便物に依頼して、貨物は若干の絹を積むくらいで大部分は帆船に委ねていた。船の大きさも千トンから二千トン級。
 これにたいして黄金狂時代が作り出した太平洋郵船《パシフィック・メイル》の船は、初手から三千トン級の当年での世界的優秀船だった。もしも政府の充分な補助があり、中途に恰好な石炭補給場が見つかりさえすれば、石炭|喰《ぐらい》の単式エンジンをもってしても、両輪《パドル》に太平洋の波をわけてよく貨物の輸送に耐えることができたはずである。
 たんに汽船と帆船を比較したのでなく、貨物輸送に耐えうる条件下の汽船と帆船を比較したものとすれば、海軍委員会の報告は単に合理的であるばかりでなく、英国にたいする米国当年の絶大な気力を――マルクスが指摘したごときカリフォルニアに基づく経済的優越力を、たまたま吐露したものということができる。
 だが、いかに強力な補助金が与えられたにしても、一方サンフランシスコ・広東《カントン》(上海)間に石炭のための寄港地がなかったら、前記の技術条件の下では物にならない。
 かくて日本問題が、この日以来全然新しい視角から米国上下の関心事となった。

[#7字下げ]五 「和親」条約[#「五 「和親」条約」は中見出し]

 旧市場の拡張と新市場の獲得とが問題のいっさいだった産業資本主義発展期の当年にあって、かりそめにも、「和親」はするが貿易はおことわりだといった種類の条約が、足掛《あしかけ》五年も続いたというのはどうしたことか! 結婚はあきらめましょう。兄妹としていつまでも愛して頂戴などという類《たぐい》のたわごとが、三十代の壮年資本主義国に適用するはずがない。
 ペリーとハリスことにハリスを、幕府が頑《かたく》なな処女のように貿易だけはというのを、脅したりすかしたりで結局物にしたその道の名外交官扱いにするのは勝手であるが、しかし「和親条約」はそれだけで立派な存在理由をもっていた。
「亜墨利加《アメリカ》船、薪水《しんすい》、食糧、石炭、欠乏の品を、日本人にて調《ととの》へ候|丈《だけ》は給し候為、渡来の儀差し許し候」――サンフランシスコと上海をつなぐうえに不可欠な Port of Call――ことに石炭のための寄港地として、ヨコハマがぜがひでも当年のアメリカに必要だったのである。
 新市場候補地としての日本は、シナ市場のつぎに来るべきものとして、すでに三〇年代から米国の予算にはいっていた。一八三二年のアジア修好使エドムンド・ロバーツにたいしても、シャムその他の後にするも可なりという但書付で、日本訪問が指令されて
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