若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》も、この例《れい》に漏《も》れず、日《ひ》に一|度《ど》は、判《はん》で捺《お》したように帳場格子《ちょうばごうし》の中《なか》から消《き》えて、目指《めざ》すは谷中《やなか》の笠森様《かさもりさま》、赤《あか》い鳥居《とりい》のそれならで、赤《あか》い襟《えり》からすっきりのぞいたおせんが雪《ゆき》の肌《はだ》を、拝《おが》みたさの心願《しんがん》に外《ほか》ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草《あさくさ》の、この春《はる》死《し》んだ志道軒《しどうけん》の小屋前《こやまえ》で、出会頭《であいがしら》に、ばったり遭《あ》ったのが彫工《ほりこう》の松《まつ》五|郎《ろう》、それと察《さっ》した松《まつ》五|郎《ろう》から、おもて飾《かざ》りを見《み》るなんざ大野暮《おおやぼ》の骨頂《こっちょう》でげす。おせんの桜湯《さくらゆ》飲《の》むよりも、帯紐《おびひも》解《と》いた玉《たま》の肌《はだ》が見《み》たかァござんせんかとの、思《おも》いがけない話《はなし》を聞《き》いて、あとはまったく有頂天《うちょうてん》、どこだどこだと訪《たず》ねるまでもなく、二|分《ぶ》の礼《れい》と着ていた羽織《はおり》を渡《わた》して、無我夢中《むがむちゅう》は、やがてこの垣根《かきね》の外《そと》となった次第《しだい》。――百|匹《ぴき》の蚊《か》が一|度《ど》に臑《すね》にとまっても、痛《いた》さもかゆさも感《かん》じない程《ほど》、徳太郎《とくたろう》の眼《め》は、野犬《やけん》のようにすわっていた。
「若旦那《わかだんな》」
「黙《だま》って。――」
「黙《だま》ってじゃァござんせん。もっと低《ひく》くおなんなすって。――」
「判《わか》ってるよ」
「そんならお速《はや》く」
「ええもういらぬお接介《せっかい》。――」
 おおかた、縁《えん》から上手《かみて》へ一|段《だん》降《お》りて戸袋《とぶくろ》の蔭《かげ》には既《すで》に盥《たらい》が用意《ようい》されて、釜《かま》で沸《わか》した行水《ぎょうずい》の湯《ゆ》が、かるい渦《うず》を巻《ま》いているのであろうが、上半身《じょうはんしん》を現《あら》わにしたまま、じっと虫《むし》の音《ね》に聴《き》きいっているおせんは、容易《ようい》に立《た》とうとしないばかりか、背《せ》から腰《こし》へと浴衣《ゆかた》の滑《すべ》り落《お》ちるのさえ、まったく気《き》づかぬのであろう。三日月《みかづき》の淡《あわ》い光《ひかり》が青《あお》い波紋《はもん》を大《おお》きく投《な》げて、白珊瑚《しろさんご》を想《おも》わせる肌《はだ》に、吸《す》い着《つ》くように冴《さ》えてゆく滑《なめ》らかさが、秋草《あきぐさ》の上《うえ》にまで映《は》え盛《さか》ったその刹那《せつな》、ふと立上《たちあが》ったおせんは、颯《さっ》と浴衣《ゆかた》をかなぐり棄《す》てると手拭《てぬぐい》片手《かたて》に、上手《かみて》の段《だん》を二|段《だん》ばかり、そのまま戸袋《とぶくろ》の蔭《かげ》に身《み》を隠《かく》した。
「あッ」
「たッ」
 辱《はじ》も外聞《がいぶん》も忘《わす》れ果《は》てたか、徳太郎《とくたろう》と松《まつ》五|郎《ろう》の口《くち》からは、同時《どうじ》に奇声《きせい》が吐《は》きだされた。

    三

「おせんや」
「あい」
「何《な》んだえ、いまのあの音《おと》は。――」
「さァ、何《な》んでござんしょう。おおかた金魚《きんぎょ》を狙《ねら》う、泥棒猫《どろぼうねこ》かも知《し》れませんよ」
「そんならいいが、あたしゃまたおまえが転《ころ》びでもしたんじゃないかと思《おも》って、びっくりしたのさ。おまえあって、あたし、というより、勿体《もったい》ないが、おまえあってのお稲荷様《いなりさま》、滅多《めった》に怪我《けが》でもしてごらん、それこそ御参詣《おさんけい》が、半分《はんぶん》に減《へ》ってしまうだろうじゃないか。――縹緻《きりょう》がよくって孝行《こうこう》で、その上《うえ》愛想《あいそう》ならとりなしなら、どなたの眼《め》にも笠森《かさもり》一、お腹《なか》を痛《いた》めた娘《むすめ》を賞《ほ》める訳《わけ》じゃないが、あたしゃどんなに鼻《はな》が高《たか》いか。……」
「まァお母《かあ》さん。――」
「いいやね。恥《はず》かしいこたァありゃァしない。子《こ》を賞《ほ》める親《おや》は、世間《せけん》には腐《くさ》る程《ほど》あるけれど、どれもこれも、これ見《み》よがしの自慢《じまん》たらたら。それと違《ちが》ってあたしのは、おまえに聞《き》かせるお礼《れい》じゃないか。さ、ひとつついでに、背中《せなか》を流《なが》してあげ
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