中《なか》で煮《に》えくり返《かえ》る甘《あま》い匂《におい》を、一|度《ど》でいいから嗅《か》がしてやりてえくれえのもんだ。紅《べに》やおしろいのにおいなんぞたァ訳《わけ》が違《ちが》って、魂《たましい》が極楽遊《ごくらくあそ》びに出《で》かけるたァこのことだろう。おまけにただの駄爪《だつめ》じゃねえ。笠森《かさもり》おせんの、磨《みが》きのかかった珠《たま》のような爪様《つめさま》だ。――大方《おおかた》松《まつ》五|郎《ろう》の奴《やつ》ァ、今時分《いまじぶん》、やけ[#「やけ」に傍点]で出《で》かけた吉原《よしわら》で、折角《せっかく》拾《ひろ》ったような博打《ばくち》の金《かね》を、手《て》もなく捲揚《まきあ》げられてることだろうが、可哀想《かわいそう》にこうしておせんの脚《あし》を描《か》きながらこの匂《におい》をかいでる気持《きもち》ァ、鯱鉾《しゃちほこ》立《だち》をしたってわかるこッちゃァあるめえて。――ふふふ。もうひと摘《つか》み、新《あたら》しいこいつをいれ、肚《はら》一|杯《ぱい》にかぐとしようか」
春重《はるしげ》は傍《かたわ》らに置《お》いた紅《べに》の糠袋《ぬかぶくろ》を、如何《いか》にも大切《たいせつ》そうに取上《とりあ》げると、おもむろに口紐《くちひも》を解《と》いて、十ばかりの爪《つめ》を掌《てのひら》にあけたが、そのまま湯《ゆ》のたぎる薬罐《やかん》の中《なか》へ、一つ一つ丁寧《ていねい》につまみ込《こ》んだ。
「ふふふ、こいつァいい匂《におい》だなァ。堪《たま》らねえ匂《におい》だ。――笠森《かさもり》の茶屋《ちゃや》で、おせんを見《み》てよだれを垂《た》らしての野呂間達《のろまたち》に、猪口《ちょこ》半分《はんぶん》でいいから、この湯《ゆ》を飲《の》ましてやりてえ気《き》がする。――」
どこぞの秋刀魚《さんま》を狙《ねら》った泥棒猫《どろぼうねこ》が、あやまって庇《ひさし》から路地《ろじ》へ落《お》ちたのであろう。突然《とつぜん》雨戸《あまど》を倒《たお》したような大《おお》きな音《おと》が窓下《まどした》に聞《きこ》えたが、それでも薬罐《やかん》の中《なか》に埋《う》められた春重《はるしげ》の長《なが》い顔《かお》はただその眉《まゆ》が阿波人形《あわにんぎょう》のように、大《おお》きく動《うご》いただけで、決《けっ》して横《よこ》には向《む》けられなかった。
二
「おたき」
「え」
「隣《となり》じゃまた、いつもの病《やまい》が始《はじ》まったらしいぜ。何《なに》しろあの匂《におい》じゃ、臭《くさ》くッてたまらねえな」
「ほんとうに、何《な》んて因果《いんが》な人《ひと》なんだろうね。顔《かお》を見《み》りゃ、十|人《にん》なみの男前《おとこまえ》だし絵《え》も上手《じょうず》だって話《はなし》だけど、してることは、まるッきり並《なみ》の人間《にんげん》と変《かわ》ってるんだからね」
「おめえ。ちょいと隣《となり》へ行《い》って来《き》ねえ」
「何《なに》しにさ」
「夜《よる》のこたァ、こっちが寝《ね》てるうちだから、何《なに》をしても構《かま》わねえが、お天道様《てんとうさま》が、上《あが》ったら、その匂《におい》だけに止《や》めてもらいてえッてよ。仕事《しごと》に行《い》ったって、えたいの知《し》れぬ匂《におい》が、半纏《はんてん》にまでしみ込《こ》んでるんで、外聞《げえぶん》が悪《わる》くッて仕様《しよう》がありやァしねえ」
「女《おんな》じゃ駄目《だめ》だよ。お前《まえ》さん行《い》って、かけ合《あ》って来《き》とくれよ」
「だからね。おいらァ行《い》くな知《し》ってるが、今《いま》もそいった通《とお》り、帳場《ちょうば》へ出《で》かけてからがみっともなくて仕様《しよう》がねえんだ。あんな匂《におい》の中《なか》へ這入《へえ》っちゃいかれねえッてのよ」
「あたしだっていやだよ。まるで焼場《やきば》のような匂《におい》だもの。きのうだって、髪結《かみゆい》のおしげさんがいうじゃァないか。お上《かみ》さんとこへ結《ゆ》いに行《い》くのもいいけれど、お隣《となり》の壁越《かべご》しに伝《つた》わってくる匂《におい》をかぐと、仏臭《ほとけくさ》いような気《き》がしてたまらないから、なるたけこっちへ、出《で》かけて来《き》てもらいたいって。――いったいお前《まえ》さん、あれァ何《なに》を焼《や》く匂《におい》だと思《おも》ってるの」
「分《わか》ってらァな」
「何《な》んだえ」
「奴《やつ》ァ絵《え》かきッて振《ふ》れ込《こ》みだが、嘘《うそ》ッ八だぜ」
「おや、絵《え》かきじゃないのかい」
「そうとも。奴《やつ》ァ雪駄直《せったなお》しだ」
「雪駄直《せったなお》し。―
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