思《おも》ってさ」
「おや、それは御親切《ごしんせつ》に、有難《ありがと》うはござんすが、あたしゃいまも申《もう》します通《とお》り、風邪《かぜ》を引《ひ》いたお母《かあ》さんと、お見世《みせ》へおいでのお客様《きゃくさま》がござんすから。――」
「この雨《あめ》だ。いくら何《な》んでも、お客《きゃく》の方《ほう》は、気《き》になるほど行《い》きもしまい。それとも誰《だれ》ぞ、約束《やくそく》でもした人《ひと》がお有《あ》りかの」
「まァ何《な》んでそのようなお人《ひと》が。――」
「そんなら別《べつ》に、一|時《とき》やそこいら遅《おそ》くなったとて、案《あん》ずることもなかろうじゃないか」
「お母《かあ》さんが首《くび》を長《なが》くして、薬《くすり》を待《ま》ってでございます」
「これ、おせんちゃん」
「ああもし。――」
「お手間《てま》を取《と》らせることじゃない。ちと折《おり》いって、相談《そうだん》したい訳《わけ》もある。ついそこまで、ほんのしばらく、つき合《あ》っておくれでないか」
「さァそれが。……」
「おまえ、お袋《ふくろ》さんの、薬《くすり》を買《か》いに行《い》ったとは、そりゃ本当《ほんとう》かの」
「えッ」
「本当《ほんとう》かと訊《き》いてるのさ」
「何《な》んで、あたしが嘘《うそ》なんぞを。――」
「そんならその薬《くすり》の袋《ふくろ》を、ちょいと見《み》せておくれでないか」
「袋《ふくろ》とえ。――」
「持《も》ってはいないとおいいだろう。ふふふ。やっぱりお前《まえ》は、あたしの手前《てまえ》をつくろって、根《ね》もない嘘《うそ》をついたんだの、おおかた好《す》きな男《おとこ》に、会《あ》いに行《い》った帰《かえ》りであろう。それと知《し》ったら、なおさらこのまま帰《かえ》すことじゃないから、観念《かんねん》おし」
「あれ若旦那《わかだんな》。――」
「いいえ、放《はな》すものか、江戸中《えどじゅう》に、女《おんな》の数《かず》は降《ふ》る程《ほど》あっても、思《おも》い詰《つ》めたのはお前《まえ》一人《ひとり》。ここで会《あ》えたな、日頃《ひごろ》お願《ねが》い申《もう》した、不動様《ふどうさま》の御利益《ごりやく》に違《ちが》いない。きょうというきょうはたとえ半時《はんとき》でもつき合《あ》ってもらわないことにゃ。……」
 押《おさ》えた袂《たもと》を振《ふ》り払《はら》って、おせんが体《からだ》をひねったその刹那《せつな》、ひょいと徳太郎《とくたろう》の手首《てくび》をつかんで、にやり笑《わら》ったのは、傘《かさ》もささずに、頭《あたま》から桐油《とうゆ》を被《かぶ》った彫師《ほりし》の松《まつ》五|郎《ろう》だった。
「若旦那《わかだんな》、殺生《せっしょう》でげすぜ」
「ええ、うるさい。余計《よけい》な邪間《じゃま》だてをしないで、引《ひ》ッ込《こ》んでおくれ」
「はははは。邪間《じゃま》だてするわけじゃござんせんが、御覧《ごらん》なせえやし。おせんちゃんは、こんなにいやだといってるじゃござんせんか。若旦那《わかだんな》、色男《いろおとこ》の顔《かお》がつぶれやすぜ」
 過日《かじつ》の敵《かたき》を討《う》ったつもりなのであろう。松《まつ》五|郎《ろう》はこういって、髯《ひげ》あとの青《あお》い顎《あご》を、ぐっと徳太郎《とくたろう》の方《ほう》へ突《つ》きだした。

    六

「はッはッは。若旦那《わかだんな》、そいつァ御無理《ごむり》でげすよ。おせんは名代《なだい》の親孝行《おやこうこう》、薬《くすり》を買《か》いに行《い》ったといやァ、嘘《うそ》も隠《かく》しもござんすまい。ここで逢《あ》ったが百|年目《ねんめ》と、とっ捕《つか》まえて口説《くど》こうッたって、そうは問屋《とんや》でおろしませんや。――この近所《きんじょ》の揚弓場《ようきゅうば》の姐《ねえ》さんなら知《し》らねえこと、かりにもお前《まえ》さん、江戸《えど》一|番《ばん》と評判《ひょうばん》のあるおせんでげすぜ。いくら若旦那《わかだんな》の御威勢《ごいせい》でも、こればッかりは、そう易々《やすやす》たァいきますまいて」
 おせんを首尾《しゅび》よく逃《にが》してやった雨《あめ》の中《なか》で、桐油《とうゆ》から半分《はんぶん》顔《かお》を出《だ》した松《まつ》五|郎《ろう》は、徳太郎《とくたろう》をからかうようにこういうと、我《わ》れとわが鼻《はな》の頭《あたま》を、二三|度《ど》平手《ひらて》で引《ひ》ッこすった。
 腹立《はらだ》たしさに、なかば泣《な》きたい気持《きもち》をおさえながら、松《まつ》五|郎《ろう》を睨《にら》みつけた徳太郎《とくたろう》の細《ほそ》い眉《まゆ》は、止《と》め度《ど》なくぴく
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