めたか覚《さ》めない時分《じぶん》、早《はや》くも感応寺《かんのうじ》中門前町《なかもんぜんちょう》は、参詣《さんけい》の名《な》に隠《かく》れての、恋知《こいし》り男《おとこ》の雪駄《せった》の音《おと》で賑《にぎ》わいそめるが、十一|軒《けん》の水茶屋《みずちゃや》の、いずれの見世《みせ》に休《やす》むにしても、当《とう》の金的《きんてき》はかぎ屋《や》のおせんただ一人《ひとり》。ゆうべ吉原《よしわら》で振《ふ》り抜《ぬ》かれた捨鉢《すてばち》なのが、帰《かえ》りの駄賃《だちん》に、朱羅宇《しゅらう》の煙管《きせる》を背筋《せすじ》に忍《しの》ばせて、可愛《かわい》いおせんにやろうなんぞと、飛《と》んだ親切《しんせつ》なお笑《わら》い草《ぐさ》も、数《かず》ある客《きゃく》の中《なか》にも珍《めずら》しくなかった。
「はいお早《はよ》う」
「ああ喉《のど》がかわいた」
 赤《あか》い鳥居《とりい》の手前《てまえ》にある。伊豆石《いずいし》の御手洗《みたらし》で洗《あら》った手《て》を、拭《ふ》くのを忘《わす》れた橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》が、お稲荷様《いなりさま》への参詣《さんけい》は二の次《つ》ぎに、連《つ》れの隠居《いんきょ》の台詞通《せりふどお》り、土《つち》へつかない足《あし》を浮《う》かせて、飛《と》び込《こ》んで来《き》たおせんの見世先《みせさき》。どかりと腰《こし》をおろした縁台《えんだい》に、小腰《こごし》をかがめて近寄《ちかよ》ったのは、肝腎《かんじん》のおせんではなくて、雇女《やといめ》のおきぬだった。
「いらっしゃいまし。お早《はや》くからようこそ御参詣《おさんけい》で。――」
「茶《ちゃ》をひとつもらいましょう」
「はい、唯今《ただいま》」
 三四|人《にん》の先客《せんきゃく》への遠慮《えんりょ》からであろう。おきぬが茶《ちゃ》を汲《く》みに行《い》ってしまうと、徳太郎《とくたろう》はじくりと固唾《かたず》を呑《の》んで声《こえ》をひそめた。
「おかしいの。居《お》りやせんぜ」
「そんなこたァごわすまい。看板《かんばん》のねえ見世《みせ》はあるまいからの」
「だが御隠居《ごいんきょ》。おせんは影《かげ》もかたちも見《み》えやせんよ」
「あわてずに待《ま》ったり。じきに奥《おく》から出《で》て来《き》よう
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