吉《きち》ちゃん。おかみさんや、ほかの人達《ひとたち》にお願《ねが》いして、あたしがたった一人《ひとり》、お前《まえ》の枕許《まくらもと》へ残《のこ》してもらったのは、十|年前《ねんまえ》の、飯事遊《ままごとあそ》びが、忘《わす》れられないからでござんす。――みんなして、近所《きんじょ》の飛鳥山《あすかやま》へ、お花見《はなみ》に出《で》かけたあの時《とき》、いつもの通《とお》り、あたしとお前《まえ》とは夫婦《ふうふ》でござんした。幔幕《まんまく》を張《は》りめぐらした、どこぞの御大家《ごたいけ》の中《なか》へ、迷《まよ》い込《こ》んだあたし達《たち》は、それお前《まえ》も覚《おぼ》えてであろ。絵《え》にあるような綺麗《きれい》な、お嬢様《じょうさま》に何《なに》やかやと御馳走《ごちそう》を頂戴《ちょうだい》した挙句《あげく》、お化粧直《けしょうなお》しの幕《まく》の隅《すみ》で、あたしはお前《まえ》に、お前《まえ》はあたしに、互《たがい》にお化粧《けしょう》をしあって、この子達《こたち》、もう小《こ》十|年《ねん》も経《た》ったなら、きっと惚《ほ》れ惚《ぼ》れするように美《うつく》しくなるであろうと、お世辞《せじ》にほめて頂《いただ》いた、あの夢《ゆめ》のような日《ひ》のことが、いまだにはっきり眼《め》に残《のこ》って……吉《きち》ちゃん。あたしゃ今こそお前《まえ》に、精根《せいこん》をつくしたお化粧《けしょう》を、してあげとうござんす。――紅白粉《べにおしろい》は、家《いえ》を出《で》る時《とき》袱紗《ふくさ》に包《つつ》んで持《も》って来《き》ました。あたしの遣《つか》いふるしでござんすが、この紅筆《べにふで》は、お前《まえ》が王子《おうじ》を越《こ》す時《とき》に、あたしにおくんなすった。今では形見《かたみ》。役者衆《やくしゃしゅう》の、お前《まえ》のお気《き》に入《い》るように出来《でき》ますまいけれど、辛抱《しんぼう》しておくんなさい。せめてもの、あたしの心《こころ》づくしでござんす」
北《きた》を枕《まくら》に、静《しず》かに眼《め》を閉《と》じている菊之丞《きくのじょう》の、女《おんな》にもみまほしいまでに美《うつく》しく澄《す》んだ顔《かお》は、磁器《じき》の肌《はだ》のように冷《つめ》たかった。
白粉刷毛《おしろいばけ》を持《も》ったおせんの
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