わない。ただ懸命に人生を生きぬき、修行しさえすれば、よい作家になれると単純に信じている私に、この公案が、(あきらめよ、わが心、けだもの、眠りを眠れ)と話しかけるのである。
 私がこの禅の話で、夢中になっている間、桂子はひとりでコップ酒をがぶがぶ飲みはじめたようだ。私のハッと気づいた時には桂子は、ベロベロに酔って、眼を据えていた。そして、先輩のYさんと口喧嘩《くちげんか》を始めている。Yさんもかなり酔われているようだ。桂子が大声で、「こんな酒、飲めるものか。ビールとチーズを持ってこい」と、店で大見えを切るように威張れば、Yさんが震え声でどもりどもり、
「君、なにを失礼なことをいうんだ。もういいから帰ってくれ給え」
「帰るとも、ロクなものを食わせもしないで大きなことをいうな」
 桂子がフラフラ立上るのに、Yさんが、「この女、生意気な」と組みついていかれて、奥さんに引きとめられ、奥に寝かされに連れてゆかれてしまった。私も酔眼朦朧《すいがんもうろう》として、その様子を眺めていたが、早く、桂子を連れださねばならぬと思い、彼女をせかして玄関に出たが、桂子はもはや、ひとりで草履《ぞうり》をはけないほ
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